『ナチス 破壊の経済』アダム・トゥーズ(コロンビア大学教授)著 山形浩生・森本正史訳 みすず書房 評者・田代秀敏
著者 アダム・トゥーズ(コロンビア大学教授) 訳者 山形浩生、森本正史 みすず書房 (上下巻、各4800円)
「V字回復」の神話を精緻な事実検証で粉砕
「ナチスは選挙によって合法的に政権を取り、たちまちドイツ経済をV字回復させた」──保守派も、リベラル派も、しばしばそう言う。
だがナチスが選挙で単独過半数の議席を得たことは一度もなかった。ワイマール憲法の緊急事態条項を悪用し、反対する諸政党を強制的に排除して全権委任法を強行採決し、独裁的な権力を奪取したのであった。そもそもヒトラー体制は、適法性という基本的規範の順守を明らかに全く欠いていた。
ナチスが「経済をV字回復させた」というのも神話である。
事実、政権奪取から2年後でありベルリン五輪の前年である1935年に、大恐慌の前年(28年)の水準と比べ、ドイツの個人消費は7%、民間投資は22%減少した。
対照的に政府の歳出は28年より70%増え、その大半は軍事費であった。民間セクターを犠牲にした軍備拡張が景気を見かけだけ回復させたに過ぎなかったのである。
巨大高速道路網「アウトバーン」の建設が雇用を創出したというのも神話である。
アウトバーンは、あくまでも大部隊を高速で移動させるという軍事的目的のために建設された。雇用創出の手段として考案されたことは一度もなかったし、失業軽減にもまるで貢献しなかった。そもそも、雇用創出は、ヒトラー体制の最優先事項ではなかった。
結局、ナチスによる政府主導の「経済復興」は、前例のない公共支出の集中化と連動して進められ、その最大の受益者は軍だったのである。
本書は、こうした事実を次々と具体的かつ精密に示すことで、「ナチスが経済をV字回復させた」という神話を徹底的に粉砕していく。
ドイツ経済を取り巻いていた国際環境の変化が、ナチスの政策を動かしていく過程も詳細に描かれる。
ナチスが政権を奪取した時の国際金融は、ドイツがイギリスやフランスへの巨額の賠償金の支払い分をアメリカから借り、それを受け取ったイギリスとフランスがアメリカに戦時中に借りた融資を返済するという「たらい回し」の構造であった。
ところがアメリカが変貌し、たとえ主要な貿易相手を困窮させることになっても自国の大恐慌からの回復を絶対的な優先事項とすると、ナチスは賠償金の支払いを停止し、「たらい回し」は崩壊した。
「世界の警察官」をもはや辞任したアメリカが、貿易戦争を同盟国にも仕掛ける現在の世界を生き延びるために、熟読するべき歴史書である。
(田代秀敏、シグマ・キャピタルチーフエコノミスト)
Adam Tooze ロンドン生まれ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号取得。ケンブリッジ大学で教えた後、米国に渡り、エール大学で国際安全保障研究所所長を務め、2015年から現職。