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小説 高橋是清 第83話 米国参入=板谷敏彦

(前号まで)

 鴨緑江における日本軍勝利の報は日本政府の公債発行に弾みをつける。ロンドンで銀行団との交渉を続ける是清に、米国クーン・ローブ商会の社主ヤコブ・シフが接触する。

 明治37(1904)年5月4日、公債発行の仮契約を祝った晩餐(ばんさん)会の翌朝のことである。

 パース銀行のアレキサンダー・シャンドがホテルまでやってきた。銀行団も是清のホテルもシティーのエリアに集中していて近所である。

 シャンドは是清の部屋をノックするのももどかしく、ほとんど同時にドアを開けると息を切らして部屋に入って来た。急いで来たのだ。電話をすればよさそうなものだが、直接告げに来た。

「たった今クーン・ローブ商会から当行に使いが来まして、日本公債の残り500万ポンド分の販売を引き受けたいと言っています」

 シャンドは英国紳士らしく落ち着いて話してはいるが、顔の表情に興奮の色が隠せなかった。

「シャンドさん、今なんとおっしゃいましたか?」

 残りの500万ポンド分が売れると?そんなうまい話があるのか。是清にすればあまりに突然のことだった。

天佑の公債引き受け

「一体どうしたと言うのです?」

 問いかける是清に、シャンドは両の掌(てのひら)をゆっくりと向けて落ち着かせると、

「高橋さん、昨夜あなたはクーン・ローブ商会の社主ヤコブ・シフさんに日本のことを説明しましたね?」

「ああ、あの人はシフという名前なのか」

 是清は深井に向かってただすが、深井もクビを振るばかりである。顔と名前がつながらない。

 それを見たシャンドは少し怪訝(けげん)な顔をしながらも続けた。

「ともあれ、シフさんは昨夜あなたの日本に関する説明をよく聞いて、日本公債に投資してもよいと納得したと。それでその日本公債を是非米国の投資家にも販売したいというのです。ですから今回我々が販売を見送った残りの500万ポンド分を是非引き受けたいと」

 是清は驚いた。ほんの数週間前まで日本公債には100万ポンドさえ集まらなかった、それがここ数日で何とか500万ポンドまで発行できるようになったばかりなのに、今朝は1000万ポンド発行できるという。

 まさに天佑(てんゆう)である。少し前まで横浜正金銀行にはビタ一文の信用もなし、ロンドン市場では日本の公債発行は無理と言っていたではないか。ましてや米国市場は日本公債など見向きもしてくれなかったのだ。

「シャンドさん、そのクーン・ローブ商会というのはちゃんとした銀行でしょうか?」

「もちろんです。使いの者が言うには、このニュースを聞いた我が英国の外務大臣ランズダウン卿も大層喜んでいるそうです。またこの件で明日10時に外相は香港上海銀行のキャメロン卿を訪問することになっています。いろいろと聞きたいことがあるのでしょう」

 銀行団の主なメンバーたちはこのことを既に知っているのだ。

「高橋さん、それよりもこれで公債発行の条件も日本国側にすこし有利にできるかもしれません。目論見書と契約書をもう一度詰めておいてください。私は写しをクーン・ローブ商会、シフさんの同行者オットー・カーンさんに渡しておきます。

 彼らはそれをチェックして、米国でも目論見書を使えるように修正箇所を指摘してくると思います」

「ありがとうシャンドさん。クーン・ローブ商会の信用に関してはパース銀行にお任せします。この話は是非進めてください」

 すべてがトントン拍子に決まったように是清の目には映った。だが実は、ベアリング商会レベルストック卿の5月3日の日誌、この会話の1日前には、早くも1000万ポンドの日本公債発行の話がまとまったと記されていた。半分をパース銀行と香港上海銀行が引き受け、もう半分は米国のクーン・ローブ商会が引き受けると。

 つまり是清に知らされる前に、このディールは発行体である日本政府を飛ばして業者の間だけで勝手に決まっていたことになる。

 シフとカッセル卿とレベルストック卿、これに香港上海銀行のキャメロン卿も交えて、米国が参加する話は裏面ですすんでいたのであろう。

 ただし彼らの不安材料は日本陸軍兵の戦闘能力にあった。初の本格的な陸戦である鴨緑江(おうりょくこう)の戦いの結果さえわかれば、投資の判断は可能になる。

 5月3日の晩餐会、鴨緑江での日本軍の勝利を受けて、シフは日本公債の販売を既に決めていた。しかし正式に引き受けを申し入れる前に、どんな人物が日本側の担当者にいるのかを確認するために晩餐会に参加した。そして高橋と深井は誠実で一生懸命な人たちだったのだ。

 こうしたヤコブ・シフの投資に対する慎重な態度について、単に利益至上主義の打算的な機会主義者だとする見方は間違っている。

 シフの主目的はあくまでロシアで迫害に苦しむ同胞の救済であって、こうした投資判断はシフの行動をより効果的にするための技術的な要素でしかない。

 いずれにせよ、日本はヤコブ・シフの決断によって助かった。ここでの助かったという言い方は決して大げさではない。

「金融でロシア打ち負かした」

 日本の当時の状況はといえば、この段階である程度の正貨を確保できていなければ金本位制の維持は困難だった。正貨がなく砲弾や軍事物資の輸入ができない日本などロシアの敵ではない。ロシアは時間をかけて持久戦にさえ持ち込めば、日本は早々戦力が尽き戦争継続が困難になっていたはずである。

 そしてシフの参加は、単純に発行総額が500万ポンドから1000万ポンドに増えたにとどまらなかった。なにしろ世界的に有名な相場上手の投資家が日本公債の先行きにお墨付きを与えた形になったのだ。

 株式や債券、コモディティーなど相場商品は不思議な商品である。同じ物なのに価格が下がれば何故か売りたくなる。反対に価格が上がれば投資家は買いに殺到するのである。

「米国の有名な投資家で資産家のシフ氏が日本公債を買うらしい。米国での大量の販売を引き受けたらしい」

 うわさはシティーを駆け巡った。

 4日のロンドン市場の日本公債は69・25ポンド・プラス1・00ポンド(5・78%)とさらに暴騰した。

 6日、米国側の関係書類のチェックも進み、クーン・ローブ商会は目論見書を承認した。

 日本公債の発行価格は当初93ポンドで予定されていたが、是清の粘りと米国参加による人気上昇も考慮され、93・5ポンドにまで引き上げられた。

     *    *     *

 シャンドが逐一情報を届けてくれる。

「ヤコブ・シフさんが、国王エドワード7世の午餐会に招待されたそうです。お話では国王は、英国と米国双方による日本公債引き受けを大層喜んでおられるとか」

 8日、日曜日のサンデー・タイムズはこれらの動きを受けて、「日本は金融においてもロシアを打ち負かした。」と記事を掲載した。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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