小説 高橋是清 第85話 遼東半島=板谷敏彦
(前号まで)
日露開戦後、ロンドンで日本公債発行に奔走する是清。鴨緑江会戦での勝利で一気に事態が好転する。米国投資家も加わり、1000万ポンドの公債発行を成功させた。
明治37(1904)年5月、是清たちが初のポンド建て戦時公債の発行に成功した頃、極東の戦場では戦いが粛々と進行していた。
まず日本海軍は、ロシア太平洋艦隊の活動を封じるため、開戦直後の2月14日の第1次旅順港閉塞(へいそく)作戦以来、旅順港入り口の狭い箇所に古船を沈めて航行不能を試みていたが、ロシア側の砲撃によって作戦は困難を極めた。
第2次が3月27日で、広瀬武夫中佐戦死で有名なこの作戦が失敗に終わった後、日本海軍は想定される航路に機雷を大量に敷設してロシア艦隊の封鎖を試みた。
4月13日、艦隊司令官のステパン・マカロフ中将はこの機雷に接触して戦死した。思えばこの事件をきっかけに日本の公債価格は下げ止まったのだった。
そして5月3日には第3次作戦も試みるが、これも失敗に終わってしまった。
それまで海軍は独力での旅順港封鎖を目標としてきたが、この第3次旅順港閉塞作戦の失敗によって海からの封鎖を断念し、陸軍に対して陸からの旅順港要塞(ようさい)の攻略を依頼することになった。
南山の戦い
ここに日露戦争陸戦中最も苛酷(かこく)だったと言われる旅順要塞攻撃作戦が始まったのである。旅順攻略は最初から計画された作戦ではなかったのだ。
一方、陸軍は主に四つの軍から編成された。
第1軍は黒木為楨(ためもと)大将が率いて、この時期朝鮮半島から鴨緑江(おうりょくこう)を経て遼陽を目指している。
第2軍は奥保鞏(やすかた)大将。5月14日、つまり是清たちが公債発行成功の余韻に浸っている頃、主力部隊5万人が遼東半島に上陸した。旅順と遼陽のロシア軍の連絡を切断、これが5月25日の南山の戦いである。第2軍は南山攻略後、第3軍に後を託して北転、南満州鉄道沿いに遼陽を目指すことになる。
第3軍は乃木希典大将、6月初旬に遼東半島に上陸、南進して旅順要塞を攻略する。
そして第4軍は野津道貫大将、第1軍と第2軍の間にできた間隙(かんげき)を埋めるべく6月24日に編成された。
この時代のロジスティクスの中心は鉄道である。大軍の移動に鉄道は必須であった。従って日露戦争の陸戦は南満州鉄道に沿って旅順、遼陽、奉天と展開していくことになったのである。
* * *
5月25日に第2軍によって戦われた南山の戦いは、初めての近代的要塞に対する攻略戦だった。
守兵1万7000人に対して奥軍は3万8500人で攻めた。海軍が敵陣に対する艦砲射撃で支援したが、ロシア軍の塹壕(ざんごう)と機関銃の前に、死傷者は4300人と参加人員の10%を超えてしまった。
この時、第2軍の軍医部長だった森林太郎(鴎外)一等軍医正(大佐相当)は、戦闘時800人分収容可能な野戦病院を用意していたが、予想のはるか上をいく想定外の損失だったのである。
想定外は死傷者だけではなく、砲弾もそうだった。先の日清戦争の全期間における砲弾補充量は合計で3万4090発だったが、南山の戦いではたった1日の戦闘でこの数字に達してしまったのだ。
戦闘後すぐに砲弾不足が露呈した。予想外の砲弾消費量に日本国内の工業力では砲弾の生産が追いつかないのは明白、すぐにでも海外に発注せねばならない事態となった。
つまり日露戦争開戦前に見積もっていた日清戦争の約3倍、戦費4億5000万円などでは近代戦は到底戦えないこと、従って輸入に必要な決済通貨の正貨も1億や2億円ではまったく足りないことを南山の戦いは早々と示したのである。
* * *
これを受けて松尾臣善(しげよし)日銀総裁は新たに戦費を10億円と見積もり直した。いきなり倍額以上である。松尾の見積もりの根拠は以下だった。
7月 旅順陥落
8月 遼陽陥落
9月 ウラジオストク陥落
10月 休戦
12月 講和
結果を知っている我々から見ると、これでもまだまだ甘い見積もりだった。
またロシアは4月30日に第2太平洋艦隊すなわちバルチック艦隊の極東派遣を発表していた。
旅順にある太平洋艦隊とバルチック艦隊が合流すれば、その戦力は日本艦隊の2倍になる。
日本としては艦隊が極東に到着する前に旅順の太平洋艦隊を封鎖するか撃滅する必要に迫られたのである。
6月18日、こうした背景から、政府はロンドンの是清に対してさっそく第2回日本公債の募集2億円を命じた。日露戦争当時の日本は、本当に金(正貨)がないのに戦争を始めてしまったのである。
しかしロンドンの資本市場はそれほど日本に都合よくできてはいなかった。第1回募集分の分割払い込みの最終回が8月25日である。ロンドン金融街シティーの常識では次回発行は少なくともそれ以降の話だったのだ。
是清たちのギリギリの努力と、米国クーン・ローブ商会シフとの予期せぬ出会いという僥倖(ぎょうこう)で、やっとのことで1億円の第1回の公債発行ができたのが当時の実情だった。
広がる世論との温度差
日本のメディアも国民も、日本が正貨不足に苦しんでいることを理解していなかった。また政府は世論が戦争に対して弱気になることを憂慮して軍資金不足を世間に対してきちんと説明していなかった。
第1回公債発行条件が決まった直後の5月11日の東京朝日新聞はこう報じている。
「(要約)金本位制維持のために正貨準備は必要で、そのためのポンド建て公債発行も仕方がないだろう。表面上6%公債というが、真の利子は6・6%である。また7年後の満期には100ポンドを返さなければならないので、実際の利率は8%強にもなるではないか。こんなに発行環境の悪い時期に募集せずとも、起債時期の選択には自重自忍が肝要である」
何もわかっていなかった。公債の発行のタイミングに対して批判的であったのだ。
「深井君、我々は一度日本へ帰って現状をきちんと報告せねばならぬな」
深井は黙ってうなずいた。
(挿絵・菊池倫之)
(題字・今泉岐葉)