小説 高橋是清 第87話 金がない=板谷敏彦
(前号まで)
旅順要塞攻略戦は膠着(こうちゃく)し、遼陽会戦では包囲殲滅という目標を達成できず、日本軍は苦戦を強いられる。ロンドン上場の日本公債は下落、戦費は尽きようとしていた。
明治37(1904)年9月5日付の英国の新聞タイムズに遼陽の会戦の詳細が記事になった。
そこには日本軍はロシア軍を北に駆逐して、地勢的な勝利を収めたが、今度の戦争はこれまでのものに比べて恐ろしく兵員と砲弾と資金を消費するものであると書かれていた。
このためロンドンの投資家は戦争全般のコスト、言い換えれば日本とロシアの継戦能力について再考する必要に迫られたのだ。
それでも、いやそれゆえに、日本からは是清に対して、遼陽の会戦は勝ち戦なのだから、この機に乗じて早く次の公債を発行せよと督促が来る。
「困ったなあ、とてもではないが、現状では再度の公債発行は無理だし、もし強行するとなると、相当条件が悪くなるぞ」
悩む是清に荒川巳次(みのじ)ロンドン総領事が助け舟を出した。
「高橋さん、私の方からも小村外務大臣に現状報告の電報を打っておきましょう。ロンドンにいなければわからないこともあります」
戦勝でも公債金利は上昇
9月17日、荒川ロンドン総領事が小村寿太郎外務大臣経由大蔵大臣に対して、戦勝にもかかわらず、何故日本の公債価格は下がるのか、報告の電報を打った。
【倫敦(ロンドン)における日本公債相場下落に関し大蔵大臣への報告の件】
遼陽の会戦戦勝にもかかわらず何故日本の公債価格が下落するのか、
・遼陽の会戦がロシア軍の包囲殲滅(せんめつ)とならず取り逃がしたこと。
・旅順が陥落しなかったこと。
・ロシアが和平を望んでいないこと。
・ロンドンにまだ高橋がいるので、投資家筋は近く再び日本が公債募集をすると読んでいること。
東京の朝日新聞でもこのあたりの事情を記事にしている。
「遼陽においての光輝ある戦勝にもかかわらず、我が公債はかえって下落してしまった。当地の経済誌によると、これは日本の富力が公債の元利金を償還できないからではなく、日本が今後もたびたび当地で公債を発行するであろうという予測によるものだ」
要するに、今回の戦争はこれまで以上に金がかかる。従って日本は今後も公債をどんどん発行してくるであろうという予測なのだ。
こうした中でも、軍事物資の輸入は続き、日本の正貨流出は止まらない、多少条件が悪くなろうとも、ポンド建ての公債発行はどうしても必要だったのだ。是清は銀行団と第2回公債発行の交渉を粘り強く続けたのである。
「クーポンは6%、発行価格は90(額面100)ポンドでお願いしたい」
第1回の発行価格が93・5ポンドだったのだから、是清にすれば、これでも銀行団に対して随分と譲っているつもりだった。
しかし是清が銀行団と交渉を続けていると、どうにも彼らは歯切れが悪い。何か重要な議論があると必ず、「彼らはどう考えているのでしょう?」と、ベアリング商会のレベルストック卿や個人金融家のカッセル卿、そしてその背後にいるであろう米国のヤコブ・シフを引き合いに出すのだ。
是清はこの第2回の公債発行での交渉を通じて、ひとつわかったことがあった。
それはつまり、この現在目の前で進行している多分史上最大級となるであろう国際金融取引を決定しているのは、自分の目の前にいる銀行団ではなく、どうやら市場を支配する英米の大物金融家たちであるらしいのだ。ディールメーカーと呼ばれる連中である。
「深井君、我々はもう少しロスチャイルド家やカッセル卿などとのリレーションに力を注がねばならぬようだな。できれば米国のシフと直接交渉できるようにならねばならぬ」
資金調達の旅に出る時、お供は英語さえできれば誰でもよいと言って深井を軽視していた是清だが、この頃になるとすっかり信頼関係が出来上がっていた。当初は深井をセクレタリーと呼んでいたが、この頃にはアシスタントと呼ぶようになっていた。現代語だとわかりにくいが、随分と格上げだったのだ。
是清はもともと器用な男だし、身の回りのことは全部自分でやってしまう。深井のことを下僕のように扱うことなどたったの一度もなかった。
深井は英語、日本語にかかわらず字が下手だった。この時代、既にタイプライターはあるのだが、丁寧なレターなどは手書きである。
ある晩、深井がレターの清書を慎重に書き進めていると、是清が背後からのぞき込んだ。
「深井君、もしかしてそれを先方に送ろうというのではないだろうな」
深井は机に覆いかぶさってレターを隠そうとしたが、是清は深井を机からどかせると、代わりに自分が座ってレターの清書を始めた。
とまどう深井に是清は言った。
「いいから、いいから、私が書きます」
条件巡る攻防
10月に入ると、発行条件が次第に固まってきた。クーポンは第1回と同じ6%、発行価格は87・5ポンドから90ポンドの間である。是清はこの条件に不満ではあったが、価格を譲歩することで、担保を前回同様関税収入の範囲でおさめた。今回銀行団が望んでいたたばこ税や鉄道収入を今後の発行のために温存しておくことに成功している。
この交渉の過程で是清の価格に対する不満を感じ取ったニューヨークにいる米国クーン・ローブ商会のヤコブ・シフは、パース銀行に是清宛伝言をことづける手紙を送った。
「われわれは、日本政府の満足がいく妥当な条件で交渉を進めることを望んではいるが(高橋は不満なようですね)、しかし、われわれにとっては、日本政府が持ちこたえることができるよう、もう一度支援できるようにすることが最大の目的なのです。それが、この恐ろしい戦争を一日でも早く終結に導く最も確実な方法です。私に代わってこのことを高橋臨時財政代理人にお伝え下さい」
10月12日是清は発行案を日本へ送ったが、小村外務大臣はその条件に満足していなかった。
小村外務大臣より林駐英公使宛
【新起債の政府手取り額増加方努力につき訓令】
「高橋の案では、発行価格から手数料を差し引いた政府手取りは85ポンドから87・5ポンドとあるが、連戦連勝の今日、当方一般人心これでは到底満足せず政府においてその苦慮するについては、閣下は高橋より委細の情報を聞き取り政府手取りを90以上となることに精々ご尽力ありたし」
額面100ポンドの公債を90ポンドの価格で発行しても業者の手取り2・5ポンドを差し引けば政府の手取りは87・5ポンドにしかならない。公債の償還時には100ポンドを支払わねばならず、たとえ公債の表面利率であるクーポンが6%であっても実質の金利はもっと高くなるのではないか、政府の希望は手取りで90であると。細かい指図なのである。小村も必死だった。
(挿絵・菊池倫之)
(題字・今泉岐葉)