週刊エコノミスト Onlineコレキヨ

小説 高橋是清 第88話 第2回公債発行=板谷敏彦

(前号まで)

 日本軍は連勝を続けるが公債の下落が止まらない。莫大(ばくだい)な戦費に日本の国力は耐えうるか。欧米投資家が注視する中、2回公債発行を有利にすすめるべく是清は奮闘する。

 明治37(1904)年10月15日、第1回の外貨建て公債発行から5カ月、ロシアとの近代戦は予想よりもはるかに金がかかるものだった。

 日本の正貨は再び尽きようとしていた。悪条件の中で、それでも是清たちが2回目の公債発行を模索しているちょうどその頃だ。

 ロシアのバルチック艦隊がいよいよリバウ港(現在のラトビア)を出港して極東へ向かったとのニュースが入った。早ければ年が変わる頃には日本近海へと到達するであろう。

 4月の終わりにロシア政府から艦隊の太平洋への派遣の発表があって以降、日本はこの艦隊と旅順にある太平洋艦隊との合流を恐れた。それぞれの艦隊が日本の連合艦隊と同等の戦力を持っているので、合流すると2倍の戦力となるからだ。

 旅順港内のロシア艦隊は黄海海戦を経て既に壊滅に近い状態にあったのだが、日本軍は確信を持てないでいた。

「艦隊が来るまでに旅順を落とさねばならない」日本側はそう考えていた。

ハル事件

 10月22日、小村外務大臣より林駐英公使宛

【新起債の政府手取増加方努力に関する件】

「如何にしても政府手取りを87・5以上にできないのであれば、旅順は今月中に始末がつきますので、できる限り決定を延ばして価格を引き上げるよう努力して下さい。なお今月中に旅順への総攻撃があることは固く秘密にして下さい」

 旅順攻囲戦における総攻撃は都合3回あった。第1回は8月19日でこれは失敗に終わった。小村の電報でいう総攻撃は第2回の後半戦、10月26日の総攻撃のことである。

 日本軍は確かに満州の野を北へと進軍している。日本では戦勝を祝う提灯(ちょうちん)行列が盛んに行われ、メディアも国民も戦勝気分に浮かれていた。第1回の旅順総攻撃の前には、勝利は必至と飾り付けのために街中の電球という電球が売り切れたほどである。

 しかし国民の期待と現実とのギャップは大きかった。戦争の長期化はすなわち戦費の膨張を意味する。ところが日本では輸入に使える正貨が尽きようとしていたのだ。

    *     *     *

 林公使と是清がこの電報を受け取ったちょうどその頃、バルチック艦隊は、出港から約1週間をかけてバルト海を横断し、デンマークとノルウェーの間のスカゲラック海峡を抜けて大西洋へ出て、英国とドイツの間の北海に近づいていた。

 暗い夜だった。

 スコットランドのエジンバラと英国の首都ロンドンのちょうど中間辺り、ハンバー河の北海に面した河口にハルという漁師町がある。

 北海のドッガーバンクを漁場とする漁師が住む街で、毎日50隻ほどの小さなトロール船が出漁しては平目やカレイ、タラなどを捕っていた。漁船団にはニックネームがあり、地元では「にわとり艦隊」と呼ばれていた。

 北海に点々と波に揺れる漁船の灯り。このにわとり艦隊が最新鋭の戦艦を含むバルチック艦隊の突然の襲撃を受けたのだ。「ハル事件」である。

 バルチック艦隊の極東への航海は長大な距離を移動する大遠征だ。ロシアは行く先々での補給や情報収集を目的として多くのエージェントを雇っていた。そしてそうしたエージェントの情報の中には、いい加減なものも混じっていた。

 日英同盟を結ぶ日本は、英国の協力を得て北海近辺において小型水雷艇を待ち伏せさせているというのだ。

 暗い夜の海に揺れる無数の灯り、奇襲をうかがう戦闘艦であれば灯火管制を布(し)くはずだが、極度の緊張が冷静な判断を狂わせた。

 バルチック艦隊は戦艦アリヨールだけでも500発の砲弾を発射、同士討ちもあったが、にわとり艦隊は1隻撃沈、5隻中破、2名死亡、6名が負傷した。

 しかも誤射に気が付いた後も、漁師たちの救助に向かわずに立ち去ったことがいけなかった。ひき逃げと同じである。

 少し前に極東で発生した蔚山(ウルサン)沖海戦では、日本の第2艦隊が撃沈したロシア巡洋艦リューリックの乗員を積極的に救助したことが美談として英国メディアにも伝えられていたので、この行為はあまりにも対照的な出来事になってしまったのだ。

 無辜(むこ)の漁師を傷つけられた英国は世界最強の巡洋艦隊をスクランブル発進、バルチック艦隊をスペインのビーゴ港まで追いかけた。

 そしてスペイン政府に対してロシア艦隊に石炭、真水を供給すれば中立違反と見なすと警告を発したのだった。まさに英露一触即発の事態である。

 なにより英国メディアが燃え上がった。ロシアに対する政府の強硬な姿勢を支持したのである。

 海洋覇権国家英国の名誉の問題でもあった。

「北海の暴力行為を許すな」

『タイムズ』の一面は、連日この記事で埋まった。タイトルはアウトレージ(非道)である。

英国世論が日本に傾いた

 日露戦争が始まった当初は、米国人には特有のアンダードッグ、つまり判官贔屓(びいき)、弱い者をつい応援してしまうという陽気とも大袈裟とも言える日本贔屓があった。

 しかしそれに比較して英国民は黄色人種の日本と白人のロシア人という人種問題もあってか、米国と比べると、少しさめた様子もあったのだ。

 しかし、この事件以降は英国世論が大きく日本に傾いた。

 ロシア海軍の敵失によって公債募集にとっては好ましい状況が偶然示現したのである。

 データ的にもこの日を境に、ロンドン市場の日本公債は徐々に買われて、つまり利回りは下がって、ロシア公債は徐々に値を崩していくことになった。

 その一方で小村外務大臣が期待をかけていた第2回旅順攻囲戦はまたしても失敗。是非はなかった。日本には正貨がない。条件にこだわってはいられなかったのである。

 11月8日、是清たちは第2回の公債発行の仮契約を結んだ。

 ◦発行総額 1200万ポンド(1億2000万円)

 ◦クーポン6%

 ◦発行価格 90・5ポンド

 ◦政府手取り 86・5ポンド

 ◦償還期限 7年

 募集開始は14日。ハル事件のおかげでロンドンでの販売は順調に進んで、応募倍率はロンドンが13・4倍、ニューヨークでは1・5倍の申し込みがあった。

 安いニューヨークで日本公債を仕入れ、高いロンドンで売る裁定取引も見られたとある。

 この頃の是清の日誌には「日本からの手紙」という記述が頻繁にある。しかし11月2日の日記には「直の手紙が届いた」と、名前が特筆されている。「直」の話はもう少し先にしておこう。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

10月11日号

止まらない円安 24年ぶり介入第1部 市場の攻防15 亡国の円買い介入 財政破綻を早める ■編集部17 1ドル=70円台はもうない ■篠原 尚之 ドル高が揺さぶる「国際金融」 ■長谷川 克之18 円安 これから本格化する内外金利差の円売り ■唐鎌 大輔20 国力低下 米国の強力な利上げはまだ続く 円 [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事