小説 高橋是清 第89話 増税=板谷敏彦
(前号まで)
ロシアとの近代戦は予想以上に金がかかるものだった。日本の正貨は尽きようとしている。バルチック艦隊が接近する中、是清らは2回目の公債発行にこぎつける。
2回目の公債発行によって日本政府が獲得した正貨は、額面100ポンド当たり政府手取りは86・5ポンド。今回の発行は額面1200万ポンド分なので総金額は1038万ポンドになる。日本円で約1億260万円。
1904年末の日銀の正貨準備は、05年初頭に払い込まれる第2回募集分の分割払いの残りを全部足し込んでも1億1000万円、準備率で38%ほどしかなかった。つまり目先の輸入分の支払いを済ませると日本の正貨準備はギリギリだったのだ。
「それがどんなに不利な条件であっても、どうしても発行しなければならない」
それが第2回の公債発行だった。ところが日本の世論はその状況を理解していなかった。
是清への批判高まる
ロイター外電によって公債発行条件を知った東京朝日新聞の論説である。
11月11日付朝刊。
「第1回目の公債発行で不利な条件になったのは、鴨緑江(おうりょくこう)会戦の前に条件決定がなされたので仕方がないが、今回は我が軍が連戦連勝の時である。
今回の公債発行はタイミングが悪すぎる。旅順陥落は目前に迫っているのだからもう少し待てばよかろう。また正貨補充のために外債を発行するのは仕方がないが、これほどの悪い条件で起債する担当者の責任はもはや政治的な問題でもある」
名指しにはされていないが、是清に対するあからさまな非難である。またこうした論調に刺激されたのであろう、本質を見ずに公然と是清を批判する人たちも多かった。
それでも今は戦争中である。政府としては乏しくなっていく正貨残高を逐次公表するわけにはいかなかった。世界に向けて日本は金がありませんと言えるわけもない。
それに記事は旅順がすぐにでも陥落するとの予想のもとに書かれている。メディアと国民がいかに戦勝気分にひたっていたのかがわかる。
* * *
米国にいる金子堅太郎からは、米国の専門家たちの意見をまとめた形で資金調達に対する意見具申の電報が桂太郎首相宛に出された。
「公債発行を小規模で繰り返すと条件は回を重ねるごとに悪化するし、それは日本の財務的基盤の脆弱(ぜいじゃく)さをさらけ出すようなものだから、必要金額を一度に募集した方が賢明である」
これに対する曾禰(そね)荒助大蔵大臣の返信。
「貴電の趣は今後の発行について参考になります。尚高橋日銀副総裁は来月上旬(12月)にニューヨークへ行くので委細の意見は当人に直接お伝えください」
金子のいうことはもっともではあるが、日本は少し前まで100万ポンドの公債発行さえままならなかったのだ。是清にすれば、必要金額を一度にといわれても戸惑うばかりである。
さて、曾禰蔵相から金子への返信に、是清が12月ニューヨークへ行くとある。第2回公債発行が決定すると、是清と深井には帰国の許可が下りた。
消耗戦
ここで、もう少し日本の反応を見ておこう。東京大学医学部で教鞭(きょうべん)をとるドイツ人医師ベルツの11月12日の日記からだ。
「新公債は、お世辞たっぷりの友邦イギリスと、アメリカが、いかに日本の財政に信用を置いていないかを、如実に示している。日本は額面100円につき、実際は単に86円50銭を受け取るのみで、6%の利子を支払い、しかも関税を抵当に入れなければならないのだ!」
資金調達の条件が悪すぎるというのは、当時の日本国内のコンセンサスでもあったのだろう。
もう一つ、日露戦争では非常特別税という名の下で増税があった。国民の負担感は重く、外債発行の条件にも文句の一つも付けたくなるだろう。
日露戦争の第1次非常特別税は開戦の明治37(1904)年4月から実施。内容は地租、営業税、所得税、酒税、砂糖消費税、醤油税、登録税、取引所税、狩猟免許税、鉱区税、各種輸入税の増徴、毛織物および石油消費税の新設。タバコの製造専売の開始。
第2次非常特別税は、ちょうど11月30日から始まった第21回帝国議会で議論され、翌明治38年1月から実施された。
内容は第1次の増徴に加えて、小切手の印紙税、通行税などが新設されたほか、臨時ではなく恒久税として、相続税が新設され、塩が専売となった。
第2次による明治38年度の増収分は約7400万円と見積もられていた。
そもそも政府は内外戦時公債の将来の償還資金源として増税を考えていたこともあって、非常特別税とはいうものの、戦争が終われば元に戻るという性質のものではなかった。国民の戦後の税負担はさらに重いものになっていく。
同じくベルツの11月15日の日記から、
「租税は重い。地租は、宅地が2倍、耕地が5割の値上げとなった。その他に塩専売、関税引き上げ、営業税、増税のビールとアルコール飲料税、所得税、相続税があり、それに電車代に通行税までが加わる」
一方、戦費に困っているのは日本ばかりではなかった。ロシアは人口が多く領土こそ広大だが、工業化が遅れ、英国や米国のように中間層が育っていない。決して豊かな国ではなかった。
現代の経済学による史的分析では、当時のロシアのGNP(国民総生産)は日本の約3倍、ただし人口も3倍なので、1人当たりGNPは日本と変わらなかったことがわかっている。
ロシアの大蔵大臣ココフツォフは11月に入って「財力の実勢概算」というリポートを皇帝ニコライ2世に提出して、財政上の注意を促した。
◦我が国の来年(1905年)のパリ、ベルリン、ロシアでの起債可能額は5億ルーブル(5億円、5000万ポンド)が限度でしょう。
◦もし仮に起債ができたとしても、現在戦費は月6000万ルーブルのペースで消耗しているので、残りは8カ月分しかありません。
ロシアはこの年の年末からベルリン市場で公債発行の交渉に入った。ドイツ側は極東までの石炭補給サービスという側面からバルチック艦隊の命運を握っていたこともあって、いろいろと恩着せがましく条件を付けたが、ロシアは2億3000万ルーブルの起債になんとか成功した。
ニコライ2世の戦意は旺盛だったが、ロシア側にも軍資金面で陰りが出始めていた。
* * *
12月8日、是清たちはニューヨーク港に到着し、ウォルドルフ・アストリア・ホテルに投宿した。当時のウォルドルフ・アストリアは現在のエンパイアステートビルの敷地にあった。
クーン・ローブ商会のパートナー、モーティマー・シフ(ヤコブ・シフの息子)とオットー・カーンがホテルにあいさつに来た。シフは来米中のカッセル卿と国内旅行中だった。
この時、日本陸軍はすでに旅順の203高地を占領して湾内に砲撃を開始していた。旅順の陥落は目の前だった。
(挿絵・菊池倫之)
(題字・今泉岐葉)