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小説 高橋是清 第97話 もう一度公債を=板谷敏彦

(前号まで)

 第3回の公債募集は3000万ポンドと巨額で価格の下落が始まっていた。日本海軍はバルチック艦隊を撃破するが、日銀総裁はさらに大規模な公債発行をニューヨークの是清に要請する。

 明治38(1905)年5月31日、日本海海戦に勝利したばかりの日本から意外な電報が是清のもとに届いた。

 3月末の第3回公債発行に続いてもう一度、3億円ほどの公債発行は可能かというのだ。

 もう戦争は終わるのではないのか。まだ金が要るのか? 是清は直ちに返電した。

「日本政府は先だって3億円の資金調達をしたばかりで、今現在多額の在外正貨(外国の銀行に預金している正貨)を所有している。

 したがってさらなる公債発行は投資家に理解されません」

 すると松尾臣善(しげよし)日銀総裁から返電があった。

「戦争がこの上継続すれば戦局は拡張するであろう、その際今後の軍事費の予算は7億8000万円にのぼると見積もられている。従って近々突然3億円ぐらいの外債発行が再び必要となるかもしれない。貴君のご参考までに」

 是清は念を押すつもりで返電した。

「本年10月以前の日本公債の再度の発行は無理です。本来ならば来年4月ごろが順当な時期でしょう。このことをご説明したいので、この際我々が帰朝できるように取り計らってください」

 松尾総裁はさらに軍資金が必要だというが、3月の奉天会戦での陸軍の勝利、5月の日本海海戦でのバルチック艦隊の消滅による日本海軍の勝利など、ロシア軍の敗勢はもはや誰の目にも明らかだった。

 6月2日、米国大統領セオドア・ルーズベルトは駐米ロシア大使カシニーと会見して講和を勧告、5日には駐米日本公使高平小五郎にも講和の勧告があった。

 9日には駐日米国公使グリスコムは公式文書で小村寿太郎外務大臣に講和の議定を勧告、10日には駐露米国大使マイヤーがニコライ2世に謁見して、いよいよ両国は講和の席につくことになった。

 こうして6月14日、是清は「至急一時帰朝せよ」との電報を松尾総裁から受け取った。

追加で3億円

「深井君、いよいよ帰れそうだな」

 2人はすでに大方の荷造りはすんでいたが、電報や書類などの整理にとりかかった。

 また深井は徳富蘇峰から頼まれていた土産の本を探しに急いで本屋に出掛けたりした。

 すると翌日、松尾総裁から再び電報が届いた。

「この電報は井上馨伯爵および曾禰荒助(そねあらすけ)大蔵大臣から頼まれたものだ。

 目下平和の徴候あれども、どうなるかはわからない。軍事費の予算は本年だけでも約3億円の不足である。さらにこれに加えて来年1〜3月だけでも2億3500万円が新たに必要であり、都合5億3500万円を新規に調達せねばならない。このうち5億円が債券発行によるとしても、貴君も承知の通り、国内にもはや十分な金はない。

 内国債だけでの調達は困難である。

 こうした時に井上伯爵のところへスパイヤーズ商会がやってきて、政府保有の内国債の外貨建て変換条件での売り出し、あるいは外貨建て公債の巨額の引き受けも可能であるという。しかしながらスパイヤーズと商議を進めることは、これまで世話になった引受銀行団との関係でまずかろうということで、井上伯爵はこの話を退けられた。

 しかしいずれにせよ、少なくとも9月ぐらいには、内国債2億円、外国債3億円の公債発行が必要になると予想される。ついては貴君は一個人の資格で内々に今後の発行の可能性等を探って、その上で帰朝してほしい」

 何ということだ。結局日本はもう一度3億円の起債が必要なのだ。

 是清は明日にでもクーン・ローブ商会のシフのところへ行って9月ごろの公債発行の可能性だけでも探ってみることにした。しかし、それにしてもスパイヤーズ商会が今更のこのこと出てくるとは、他の引受銀行団は容認できないだろう。スパイヤーズに引き受けさせるということはシティーやウォール街における日本の信用が地に落ちることでもあった。

 翌16日朝、矢継ぎ早に次の電報が入った。

「露国の現在の行動は誠意をもって講和を希望しつつありや疑わしい。

 ゆえに政府はさらに決心するところあり。軍事上はもちろん財政上においても戦争は継続するものと覚悟を示して十分の準備を整えることが得策と考える。ついては貴君はできるだけ早く3億円、もしやむを得ずんばその半額でも外債を取り決めてもらいたい。

 抵当を必要とするのであれば、タバコ専売益金もしくは鉄道収益をもってしてもよろしいから従来の銀行団の意向を探り至急返電してほしい。

 もしもこれまでの銀行団が使えなければ、良いこととは思えないがスパイヤーズを使わざるを得ない。貴君の帰朝は以上の話が片づいてからにしてもらいたい」

 是清はこの電報に逆上した。

「深井君、この電報は何だ」

 深井は聞き役に徹するしかない。

「今の銀行団には無理を聞いてもらってきた。そりゃ彼らも商売だが、それだけではなかったはずだ。義理を重んじる日本の美点はどこへいった」

 とさんざん悪態をついたものの、井上伯爵にせよ、曾禰大蔵大臣にせよ、ましてや松尾総裁が好んでこんなことをしているわけでもない。

 よくよく考えれば今まさに講和交渉が始まろうとしている時に、新たに3億円が必要だということは、きっと避けられない事情があるに違いないのだ。

 しかし3月末の第3回の公債募集の時、是清はシフに対して、今年1年分の戦費であると宣言し募集金額を増やした。また同じことを英国の銀行団の前でも話した。舌の根も乾かぬうち、もう3億円欲しいとは言いにくい。

 しかし考えていても何も始まらない。これは国家の危機なのだ。

「高橋さん、無理な筋だ」

 電報を受け取った16日、是清はその日の午前中に深井を伴ってシフの邸宅を訪ねることにした。

 是清たちが滞在する当時のウォルドルフ・アストリア・ホテルは34丁目の5番街、現在エンパイアステートビルが立っている場所にあった。

 一方シフの家は77丁目と78丁目の間の5番街、セントラルパークに面した一等地にあった。

 是清たちを乗せた馬車は5番街をひたすら北へと向かう。

 是清は馬車の中でシフになんと説明しようかと必死で考えたが、もはや単刀直入に行く以外に策はなかった。

「政府からさらに3億円を募集せよとの命令が来て実に意外千万であるが、あなたはこの際さらに募集ができるとおもうか?」

 シフは驚いた。

「君はついこの間、今後1年分の戦費として3億円の起債をしたいと言ったばかりではないか。英国なんかはまだ第3回公債募集の分割払いの最終回も終わっていない。高橋さん、これは無理な筋だ」

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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