週刊エコノミスト Onlineコレキヨ

小説 高橋是清 第100話 ポーツマス講和会議=板谷敏彦

(前号まで)

 日露戦争終結は近い。第4回日本公債発行を成功させた是清は英国王エドワード7世に謁見する。小村寿太郎外務大臣は講和条約の全権代表として既に日本をたった。

 明治38(1905)年7月末。

 是清がエドワード7世への拝謁で慌ただしくしている頃、深井英五のもとには兄事する国民新聞社社主の徳富蘇峰から手紙が届いた。

 国民新聞は桂太郎内閣の御用新聞と呼ばれ、政府寄りの記事を掲載していたが、それ故に蘇峰は国情をよく理解していたのである。

「日本は強かったが戦争に対するすべての力を出し切ってしまった。この上は兵が足りない。お金は借りることができても兵の不足はどうしようもない。新聞社は繁盛しています。勢力もあり信用もあるがなぜか金だけは足りない。

 小生自らも驚くほど元気です。貴兄のご家内も元気です。面白き書籍あれば携帯を願い上げ申し候。猪一郎(徳富蘇峰)」

 日本は奉天の会戦で勝利し、日本海海戦ではバルチック艦隊を殲滅(せんめつ)したが、内情は陸軍の兵力が底をついていた。国民は勝利に酔いしれていたが、日本は講和をまとめ上げるしか生きる道はなかったのである。

ウィッテの密命

 講和会議は、8月10日から米国東海岸ボストン北方のニューハンプシャー州ポーツマスの米海軍基地内で開催された。

 日本側全権代表は小村寿太郎外務大臣、高平小五郎駐米公使、ロシア側はセルゲイ・ウィッテ元大蔵大臣とロマン・ローゼン元駐日公使だった。

 小村が出発前に譲れない条件として政府から与えられていた項目は以下である。

一.朝鮮からロシア権益を一切撤去し、同国は日本の利益下におくこと。

一.日露両軍は満州から撤退すること。

一.旅順、大連その他、遼東半島の租借権、およびハルビン以南の鉄道、炭鉱等の権益を日本に譲渡すること。

 ここでは賠償金や日本軍が終戦直前に占領した樺太の獲得は必須条項ではなかったのである。

 政府も軍部もロシアから賠償金を取れるとは考えていなかった。それよりもとにかく早く戦争を終わらせたかった。もう後がないのだ。

 かくして米国東海岸の小さな町でロシアと日本の講和交渉が始まった。

 ロシア代表セルゲイ・ウィッテはシベリア鉄道開発などロシア大蔵省管轄下の鉄道管理局長官として頭角を現し1903年までの10年間大蔵大臣を務めた。ロシアの金本位制採用などは彼の功績である。

 しかし日露の緊張に及んで政敵の讒言(ざんげん)にあい、戦争中は冷や飯を食わされていた。

 ところが敗戦の色が濃厚な中での講和交渉など他の政府高官は誰もやりたがらず、結局は彼にお鉢が回ってきたというわけだった。

 全権代表の宿舎は日露ともポーツマスの町のはずれにある唯一のリゾートホテル、ウェントワース・バイ・ザ・シー。木造4階建て白亜のこの建物は今も現役である。

 この戦いは、地政学的な要素以外にもいくつもの多面的な対立軸を持っていた。例えば黄禍論に代表される白色人種対有色人種、大国対新興国、反ユダヤ主義対ユダヤ主義、キリスト教対その他の宗教。したがって日露戦争というコンテンツは世界の注目を浴びており世界中から約100人の記者が集まった。交渉の進捗(しんちょく)は電報によってリアルタイムで世界中に届けられた。

 ウィッテはメディアの扱いを心得ていた。生真面目な日本代表小村は、交渉経過を漏らさないという交渉開始時の両国の取り決めを守ったが、ウィッテは記者団に適時上手に情報をリークしメディアの人気を高めていった。

 テレビもラジオもない時代、新聞による報道が得られる情報のすべてである。メディアでの人気は世界中の新聞読者にも影響を与える。

 そうした意味で小村は不利だった。

 講和会議終了後しばらくした頃の朝日新聞はこう論評している。

「『われわれはポーツマスへ新聞の種を作らんがためにきたのではない』とは小村男爵の言なり、ウィッテはポーツマスで記者を集めて『今回平和の成立を見るにいたれるは一に諸君の力なり』」とおべんちゃらを使ったと彼我のマスコミ対策の違いを嘆いている。

 交渉も終盤に入ると焦点は「賠償金の有無」に絞られてきた。

 ウィッテがニコライ2世から与えられた命令はシンプルだった。

「いかなる場合でも一銭の償金も一握の領土も譲渡するものであってはならぬ」

 ロシアの領土は奥深い、ニコライ2世は日本に負けたとは考えていなかった。日本はロシアの領土に攻め込んだわけではなかった。会議は続く。

桂・タフト協定

 日本に目を移そう。5月末の日本海海戦によってバルチック艦隊が撃滅されて以降、極東の海域には平和が訪れていた。

 7月15日、中国革命の父、孫文がマルセイユからの船便で横浜に到着している。港には百余りの中国人留学生が出迎えた。

 この年、中国歴代王朝によって1300年間続けられた官僚登用制度である科挙が廃止。代わって留学経験が重んじられるようになり、近くにある西洋、日本への留学生が一気に増えた。

 孫文がこの船でスエズ運河を通過する時のアラブ人との会話は有名である。

「アラブ人は同じ東洋人の日本人が白色人種であるロシアの艦隊を打ち破ったことを大変喜んでいる。日本海海戦の勝利はアジアの全民族に影響を与えた」

 そして孫文は約20年後に、この逸話とともにアジア民族の独立運動は日本海海戦の勝利をきっかけとして始まったのだと神戸の講演会で語ることになる。大アジア主義演説である。

 7月25日、後に第27代大統領になるウィリアム・タフト陸軍長官と議員団が大統領の娘、アリス・ルーズベルトとともに横浜に上陸した。

 日本のメディアの目は「妙齢の処女アリス」の動向に釘付けで、タフトはそのすきに桂太郎首相との間でひそかに「桂・タフト協定」を結んだ。

 日本は米国の植民地であるフィリピンに野心を持たぬ代わりに、米国は日本の韓国における指導的地位を認めるというものだった。要するに米国はこの時に日本が韓国を保護国化することを認めたのだ。これが公表されるのは1924年のことである。

 米国は日本とロシアの講和を仲立ちする一方で、日露戦争の戦後処理、すなわち新しいアジアのパワーバランスの中で早々と自身の権益確保に乗り出していたのだ。

 こうした中、南満州鉄道への資本参加を画策するシフの盟友エドワード・ハリマンは8月10日に家族を引きつれてニューヨークを離れて日本へと向かった。到着は8月の末になろう。

 是清はハリマン歓迎の手配を伊藤博文や井上馨をはじめとする政財界首脳にお願いしてある。伊藤から聞いていた満鉄経営における外資導入案と、シフが無理筋の日本公債を引き受けてくれた義理からいえば当然のことだった。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

4月30日・5月7日合併号

崖っぷち中国14 今年は3%成長も。コロナ失政と産業高度化に失敗した習近平■柯隆17 米中スマホ競争 アップル販売24%減 ファーウェイがシェア逆転■高口康太18 習近平体制 「経済司令塔」不在の危うさ 側近は忖度と忠誠合戦に終始■斎藤尚登20 国潮熱 コスメやスマホの国産品販売増 排外主義を強め「 [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事