小説 高橋是清 第102話 日比谷焼討事件=板谷敏彦
(前号まで)
ポーツマス講和会議は大詰めを迎えた。日本は賠償金獲得を断念、失望の声が高まる一方で、欧米メディアや金融市場は日本が譲歩して戦争を止めたと評価した。
明治38(1905)年8月末。
賠償金を取れなかったポーツマス講和条約は日本の外交上の大失敗である。
当初欧米メディアの間ではこう評された。しかし、しばらくして落ち着きを取り戻すと、むしろ日本が譲歩して戦争を終わらせたことが評価された。間抜けな日本ではなく無駄な流血と出費を止めた賢明な日本というイメージが醸成され、金融市場では日本公債が再評価され始めたのだった。
募る大衆の不満
しかし日本の、売らんがためのメディアやそれを読んだ大衆の間ではそうはいかなかった。怒りや不満こそが共感を呼ぶ。
当時の有力紙、『万朝報(よろずちょうほう)』はこう報じた。
「帝国の光栄を抹殺し戦勝国の顔に泥を塗りたるは全権なり、国民は断じて帰朝を迎うる事なかれ。之(これ)を迎うるには弔旗を持ってせよ」
全権とは小村寿太郎外務大臣である。
『都新聞』はこうだ。
「この屈辱条約に満足する者ありとせば、四千万の同胞中僅かに十六人あるのみ。その十人は内閣員なり、二人は高平全権委員と徳富蘇峰なり」
深井が兄事する徳富蘇峰と彼が社主をつとめる国民新聞社は御用新聞である。条約に不満な大衆のターゲットとなりつつあった。
各地で不平集会が催され、調印当日の9月5日には講和問題同志連合会が東京日比谷公園で午後1時に演説会を計画した。講和などせずに戦ってロシアを屈服させよというのだ。
作家ジョージ・オーウェルは『カタロニア讃歌』の中でこう言った。
「すべての戦争プロパガンダ、すべての怒号、偽り、そして憎しみは、常に戦っていない人々からやってくる」
満州の戦場にいる日本軍兵士たちは、いくら士気軒高であれすでに消耗していたのだった。
* * *
ヤコブ・シフの盟友で鉄道王のヘンリー・ハリマンは8月31日に横浜に到着すると、すぐに活発に活動を始めた。
彼の活動とは、ポーツマス講和条約で日本がロシアから得るはずの東清鉄道南満州支線、すなわち後の南満州鉄道への資本参加とその経営を任せてもらうことだった。彼はすでに米国大陸横断鉄道と大西洋航路、太平洋航路の船会社を保有している。ぜひユーラシア大陸をカバーして、世界を一周する鉄道網を作りたい。これがハリマンの願望だった。資金も1億円ほど用意してきていた。戦前の日本の国家予算の3分の1ほどの規模である。
そもそも日本の日露戦争の主目的は南下するロシアを朝鮮半島から排除することだった。しかし戦闘が鉄道線路に沿って発生したので、結果として日本は後の南満州鉄道を占領することになったのだ。政府首脳の間で鉄道の価値やこれをどう利用するかの知見が共有されているわけではなかった。
漠然とわかっていることは日本の資金不足、それにロシアの脅威はまだ続くということだけだった。そこに米国の鉄道王が金を持ってやってくる。
是清が要請したハリマン来日は、日本の政財界も大歓迎だった。
連日、伏見宮、桂太郎首相、井上馨、渋沢栄一、岩崎久弥と午餐(ごさん)や面談をこなした。
9月4日には参加者千数余名というロイド・C・グリスコム駐日米公使による社交会が催された。
ハリマンはここでユーラシア大陸を横断し、世界を一つのルートで結ぶ大構想を発表している。今でいうプレゼンテーションである。
そして9月5日、ハリマンは曾禰荒助大蔵大臣主催のパーティーに出席した。
この日は日比谷公園でちょうど講和問題同志連合会が集会を予定した日であった。群衆は集会を阻止しようと公園を封鎖していた警官隊を突破、集会後は街へと繰り出し都内各所で破壊行為を行った。これが有名な日比谷焼討事件である。
欧米の新聞は、すわ日本で暴動かと報道し、それを嫌気して好調に推移していたロンドン市場の日本公債価格も下落してしまったのであった。
是清はロンドンで欧米メディアに対してロシアのような革命ではないと説明し、メディアも納得したが、せっかくの日本公債の市場人気は低迷してしまったのだ。
曾禰大臣のパーティーに参加したハリマンの一行は大蔵大臣邸から帝国ホテルへの帰路、暴徒の一部から投石を受け、同行していた米人医師が負傷した。これは日本国内の新聞記事になっている。
桂・ハリマン協定
翌9月6日、この日予定されていた華族会館での晩餐(ばんさん)会は中止になったが、ハリマンは帝国ホテルの隣にあった三井倶楽部のランチに娘たちともども招待された。
主催者の三井高棟男爵はハリマンに柔道を披露すべく、右翼団体黒龍会を率いる講道館の有力者内田良平に手配のすべてを頼んだ。内田は慶応義塾柔道部を率いてこのエキシビションに臨んだ。
内田が大男相手にあまりにも華麗に技をきめるものだから、ハリマンのボディーガードで身長180センチほどの大男がこれを疑い内田に挑んだが、彼がまるで子犬のようにコロコロと投げられるものだからハリマンの娘たちは大喜びだったと伝えられている。
ハリマンはこの後、南満州鉄道に関する協定の締結を急いだ。
9月11日に明治帝への拝謁を済ませると、協定書の作成は、グリスコム駐日米公使、日本側の担当者として日本興業銀行の添田寿一総裁、そして日本政府アドバイザーのダーハム・W・スティーブンスの3人に委ねて京都経由で神戸港から大連への現地視察へと向かった。
ハリマンが視察旅行から東京へと戻ったのは約1カ月後の10月の9日であった。
この時ポーツマス会議で交渉に当たった小村寿太郎外務大臣はまだ日本へは戻ってきていない。
「南満州鉄道に関する日米シンジケート」の協定書は準備され調印を待つばかりになっていたが小村抜きでハリマンとの協定を結ぼうとしていたのだった。
ハリマン出発の前日10月12日、ハリマンと桂太郎首相の間で予備協定書に調印する予定だったが、桂はぎりぎりで小村と相談の後ということで調印を繰り延べた。そのために予備協定書は単なる覚書となってしまったのである。
協定書覚書は、
・日本政府とハリマンの折半出資したシンジケートが満州鉄道を買収する。
・両者は全く同じ権限を持つイコール・パートナーである。
・シンジケート会社は日本法の下に設立される。
・緊急事態に際しては、会社は日本政府のコントロール下に入る。
というものだった。
ハリマンは覚書を手に10月13日の船便で帰途についた。帰路はフィリピンを訪ねていたタフトやアリス・ルーズベルトと一緒だった。
(挿絵・菊池倫之)
(題字・今泉岐葉)