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小説 高橋是清 第104話 小村の巻き返し=板谷敏彦

(前号まで)

 政府は新たに2億円の内国債を発行するという。是清は戦中に発行した高クーポンの債券を整理するために、英仏ロスチャイルドとの交渉を成功させる。

 明治38(1905)年10月16日の正午、鉄道王エドワード・ハリマンが横浜港を発って3日目のこと、小村寿太郎外務大臣がまるで入れ替わるように横浜港に到着した。

 9月5日のポーツマス講和条約調印後、小村はニューヨークで肺尖(はいせん)カタルを患い、しばらく休養の後に帰国したのである。

 その間、日本ではハリマンとの間の「南満州鉄道に関する日米シンジケート」の協定書が正式に調印されずに覚書の状態で保留されていた。

 ハリマンとの日米シンジケートは伊藤博文をはじめとする政府や財界首脳部の間では既定の案件だった。だがニューヨークで病床にいた小村は、日本から寄せられる賠償金を獲得できなかった国民の不満、日比谷焼討事件をはじめとする大衆の怒りにショックを受けてその考えを変えていた。小村は賠償金を得られなかった責任を一身に負っていた。

南満州鉄道をめぐる攻防

 約9万人の戦没者、15万人の負傷者の血が流され、約18億円もの資金を投じ国民が重税に耐えた日露戦争。ポーツマス条約でロシア南下の脅威こそ撃退したが、国民の目に見える獲得物は南満州鉄道と樺太の南半分だけだった。

 その鉄道が米国の資本によって蹂躙(じゅうりん)されるようなことはあってはならない。小村はそう心変わりしたのであった。

 また同じ意見を持つ者もいた。満州軍総参謀長の児玉源太郎も、台湾総督として植民地経営に成功した経験を生かし、南満州鉄道を核として沿線を植民地支配する考えを持っていた。

 そしてこの計画は部下の台湾総督府民政長官であった後藤新平に委ねられ、後藤はそれを後の国策会社満鉄の基本企画書に相当する「満州経営策梗概(こうがい)」としてまとめあげ、政府首脳に対して児玉の意見として開陳していたのだ。

「戦後満州経営唯一の要訣(ようけつ)は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行することにある」

 すなわち英国の東インド会社によるインド経営のごとく、南満州鉄道を使っての満州の植民地経営を目指したものであった。

   *     *     *

 小村は児玉の計画を知り、ハリマンとの協定書が中途半端な状態になっているのを機に、これを破棄すべく巻き返しに入ったのである。

 帰朝した小村は時をおかず元老伊藤博文、井上馨、桂太郎首相などを説き伏せていった。

「満州は20億の軍資金と10万の大和民族が流した血潮によって獲得されたもの」

 数字は丸められ、昭和の日本を束縛していくロジック、典型的なサンクコストとなっていく。

「日米鉄道シンジケートはご破算に願いたい」

 もともと政府首脳は講和会議で賠償金を取れるとは考えていなかった。国民の不満も予想できたものだった。従って小村にはポーツマス会議の日本全権代表というつらい役割を押しつけたという弱みが首脳たちにはあった。

「金のことなら心配ない」

 眉唾な話だが、小村は米国のハリマンすなわち彼の盟友のヤコブ・シフのライバル、モルガン商会がファイナンスをしてくれると説明した。

 こうした小村の努力が実り日本政府は「南満州鉄道に関する日米シンジケート」を取り消すことに決定したのである。

 10月27日、小村はさっそく桂首相の名前で、帰国途上のハリマンに電報を打った。ハリマンの船の到着地サンフランシスコ宛である。

「10月12日の協定書に関してはもう少し調査・研究が必要であることが判明しました。つきましては諸事情明らかになりご相談できるようになるまでは合意書は一時停止としていただきたい」

 ハリマンは協定書に無理にでもサインしなかったことを悔いたが、それでもこれを協定の破棄だとは考えなかった。金のない日本に他に選択肢があるわけがない。しばらくは良い返事を待つことにしたのである。

 11月17日、第二次日韓協約締結、第一次は日露戦争中、日本軍による大韓帝国占領下において締結、第二次では大韓帝国の外交権を剥奪した。講和条約、桂・タフト協定を受けた事実上の保護国化である。初代韓国統監には伊藤博文が就任する。

 同日、小村寿太郎は北京において清国と満州善後条約の交渉に入った。これはポーツマス条約によって日本がロシアから譲り受けた権益を清国との間で確定するための交渉であった。

 ロシアから譲り受けた満州の権益は租借権であったり、鉄道敷設権であったり、ロシアが清国から借りていたものだった。これは日本史の中でも見逃されやすい史実だが、例えば旅順・大連などの租借権は1923年まで、南満州鉄道が1939年までと意外に租借の期間は短いものなのだ。

 そのためにその後満州に対する民間の投資は伸び悩み、後に「中国問題」として日本外交に重くのしかかることになる。

 満州善後条約は12月22日に締結された。欧米のメディアでは知り得た情報の一部から、この条約締結によって満州の16の都市や港湾が欧米にも門戸開放されることを素直に喜んだ記事となった。

 小村はここに南満州鉄道の所有は日清両国民以外には許さないという一項目をしのばせた。この時点でハリマンの資本参加の話は終わったのだが、この情報はこの時には公開されなかった。

裏切り

 整理公債の発行を無事に終えた是清は1906年の新年を帰途のニューヨークで迎えた。

 1月8日、ニューヨークの最高級プライベート・クラブ、メトロポリタン・クラブでエドワード・ハリマン主催の豪華なパーティーが開催された。

 主賓は高橋是清である。もちろんハリマンの盟友シフも参加している。

 昨夏、ハリマンの日本旅行をアレンジしてくれた是清に対する感謝のパーティーであった。会場ではハリマンお気に入りの柔道のエキシビション・マッチが開催され、その様子はニューヨーク・タイムズの記事になった。

 ハリマンはここで是清に日米シンジケートの状況を尋ねた。

「高橋さん、日米シンジケートは覚書のままです。小村大臣は昨年末に清国との間でロシア権益継承の条約をまとめあげたそうですが、我々の協商はどうなっているのでしょうか?」

 是清も状況をよく知っているわけではなかった。

 この件の担当者である日本興業銀行の添田総裁宛に状況を連絡するように手配した。

 そしてそれを受けて添田総裁、また合意書の作成にかかわった日本の外務省顧問ヘンリー・ウィラード・デニソンそれぞれからハリマン宛に返ってきた答えは、「日本政府は清国から南満州鉄道の譲渡に関して合意を得たが、清国から株主は日本か清国の国民に限定するように条件が付された」というものだった。

「そんなものどうにでもなるだろう」

 日本はこれまで清国に対して好き勝手にしてきたではないか。ハリマンは怒った。

 この春ヤコブ・シフが日本に旅することになっている。すべてはシフに託された。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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