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小説 高橋是清 第106話 満鉄=板谷敏彦

(前号まで)

 ポーツマス講和条約調印後、ハリマンによる南満州鉄道への資本参加、日米シンジケートの案件が滞る中、帝国議会は「鉄道国有化法案」を採決した。

 明治39(1906)年2月、是清と深井英五が日本への帰路についた頃。陸海軍はすでに派手な凱旋(がいせん)パレードを済ませたが、満州からの撤兵は遅れ、現地では依然軍政が布かれていた。

 日本は日露戦争の資金調達を欧米にお願いする際、満州からロシアの脅威を取り除き、このエリア(中国の一部だが)を門戸開放すると盛んに喧伝(けんでん)した経緯があった。それにもかかわらず、終戦から半年が経過しても門戸開放は遅れており、

「日本人の商人は商売を始めているではないか」というような苦情が英国や米国から相次ぎ寄せられるようになった。

 2月23日、ウィルソン駐日米国代理公使から加藤高明外務大臣宛。

「帝国政府は門戸開放策を実行すると米国は理解しておりますが、現地の一部下級官僚からは差別的な扱いがあるようですのでお調べください」

 また林董(ただす)駐英大使(日露戦後に公使から大使に格上げになった)からは日本官憲による英国人の満州貿易に対する妨害が英国国会で問題になっているとの報告も寄せられる。

 3月19日には、外務省の緩慢な対応にしびれを切らしたマクドナルド駐日英国大使が韓国統監になった伊藤博文宛に抗議の私信を出した。

「日露戦争に際し、諸外国が日本に同情を寄せ軍費を供給したるは、日本が門戸開放主義を代表し、この主義のために戦うを明知したるが為なり。(中略)今日のままにて進まば、日本は与国の同情を失い、将来開戦の場合において非常なる損害を蒙るに至るべし」

 米英にすれば日露戦争に際し金融市場を開放し戦時公債発行を許したのは誰か。軍資金がなければ戦争には勝てなかったはずだ。募債の際に世界平和や満州の門戸開放を訴えていたのであるから約束は守れという主張だ。

 これに応えて日本政府は6月から奉天における外国領事館の開設を許可、次第に満州を門戸開放へと向かわせる姿勢を見せ始めた。

 5月22日、日本は苦情窓口になってしまっていた伊藤の主導で政府首脳による「満州問題に関する協議会」を発足。ここで、満州における軍政を終了するとともに、かねて児玉源太郎が後藤新平に委ねてあたためてきた「満州経営策梗概(こうがい)」に従って、政府に代わって陰に植民経営を実行する南満州鉄道の設立が決定された。

1077倍のIPO

 6月8日、「南満州鉄道株式会社設立の件」(勅令一四二号)公布、児玉源太郎を委員長とする設立委員会の設置、渋沢栄一を委員長とする定款調査委員会も設けられた。

 7月23日、児玉源太郎54歳が就寝中の脳溢血(いっけつ)により死去、是清より二つ年上だった。

 児玉の突然の死去によって、それまで総裁就任を固辞してきた後藤新平が児玉の遺志を継ぐべく南満州鉄道初代総裁に就任した。

 こうして南満州鉄道株式会社が設立され新規公開株として株式が募集されることになった。

 9月10日、南満州鉄道第1回株式募集。

 新会社の資本金は2億円。この半分は政府による鉄道と付属施設の現物出資で、残りの1億円を一般投資家から募集したのだった。特に第1回は募集予定分の20%、2000万円分10万株(額面1株200円)から役員分を差し引いた9万9000株が募集対象となった。これに対して申し込みは1億664万3016株で実に1077倍の史上空前の大盛況となった。

 もちろんこれを現代の感覚で捉えてはいけない。これには仕組みがある。

 南満州鉄道株1株200円の額面に対して20円ずつの分割払い。さらにこの最初の払い込み20円に対してもわずか5円の証拠金で申し込めたのだ。

 時代背景は日露戦争後の株式ブーム。その中での新規上場株の募集、しかも5円払えば200円の株で勝負が張れたのである。損失限定のコールオプションと同じであった。宝くじの感覚だ。

 さらに政府によって払込金に対して年率6%の配当が15年間保証されるというオマケまでついていたのだ。また銀行も投資家に対して積極的に証拠金の貸し付けを行った。

 財界は南満州鉄道の採算性からこの投資案件にはさめていたが、個人投資家にすれば、日露戦争の獲得物として投資は愛国心の発露でもあった。

 日本はハリマンの資本参加に対して、南満州鉄道の株主は日本と清国の国民に限られるとして、日米シンジケートを断ったが、清国人からの投資は高倍率を理由に断られた。

 在清林権助公使から林董外務大臣宛に清国からの抗議に関する報告電報が残されている。林権助からは、清国は怒っているが、放置しておけばよいとの報告だった。

 諸外国から見れば、こと満州の鉄道に関してはロシアが日本に入れ替わっただけだった。

 南満州鉄道新規公開株大盛況は良いのだが、資本金の半額1億円は政府による現物出資でしかない。現金はない。

 清国人投資家を排斥、新規公開株売り出しで得た資金は第1回目の支払いがあっても20円かける10万株のわずか200万円にしかならない。

 満鉄の軌間(線路の幅)はもともとロシア仕様の広軌(1520ミリメートル)だった、ところが戦争中にロシアは撤退にあたり広軌の機関車をすべて持ち去った。

 機関車をいきなり大量生産することもできない。そこで日本は戦争中に広軌から日本仕様の狭軌(1067ミリメートル)に改軌工事をして日本から現役の機関車を持ち込んだ経緯があった。

 ところが戦後は既存の中国の鉄道と合わせるために国際標準であった標準軌(1435ミリメートル:新幹線の軌間)に再び改軌する必要に迫られた。つまり機関車を含む車両からレールからすべて改めて新調せねばならなかったのだ。

 政府としては財政的には戦時公債の元利支払いで手いっぱい。国内の余剰資金も限られた中で、新設の南満州鉄道は自力で外債を発行して資金を調達する必要に迫られた。

外債発行に苦戦

 国のファイナンスは日本銀行、民間は日本興業銀行と役割は分担されていた。この資金調達は日本興業銀行の仕事である。添田寿一総裁は自ら海外出張に出向き、あたかも戦時公債発行時の是清のごとく満鉄債発行に奔走することになった。

 株式募集の翌年、1907年4月、添田は訪米しクーン・ローブ商会を訪ねるが断られてしまう。

 これは米国景気が下向きだったこともあろうが、ハリマンとの日米シンジケート破約が影響していたことは言うまでもない。

 また小村寿太郎が日米シンジケートを破棄する際に、金子堅太郎の手配でモルガン商会から融資を受けられるからハリマンの件は断っても大丈夫という話があったが、添田の記録を見る限り彼がモルガン商会を訪問して公債発行の引き受けを依頼した記録は残ってはいない。

 添田は最後にロンドン市場で400万ポンドの満鉄債発行に成功するが、それには日本政府による保証が要求されたのだった。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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