『クレメント・アトリー チャーチルを破った男』 評者・渡邊啓貴
著者 河合秀和(学習院大学名誉教授) 中公選書 2000円
戦後福祉国家のモデル構築 英雄の陰に隠れた宰相を評価
著者はかつてウィンストン・チャーチルの伝記を上梓(じょうし)したが、本書はこの第二次世界大戦の英雄である保守派の政治家の陰に隠れて見逃されがちな労働党の指導者、クレメント・アトリーを再評価する。
アトリーは地味で、謙虚な印象で語られる。大向こうを唸(うな)らせる独演を好んだチャーチルに比べて、言葉少なく時宜を得た差配で巧みに合意形成を見いだそうとするのがアトリーのスタイルだった。
しかし戦時内閣を率いたチャーチルの後、終戦直後の1945年から6年以上政権を率い、疲弊しきった英国を再建し、あらたな英国社会の土台を作ったのはアトリー政権の功績だった。それは医療を含む大規模な国有化、無料の医療提供を定めた国民健康保険、社会保障関連法、労働組合活動の規制解除など「揺りかごから墓場まで」と言われた戦後福祉国家のモデルとなった。
他方で、冷戦の様相が次第に色濃くなる時代に、アトリー政権の英国は、米国を導き入れた北大西洋条約機構(NATO)や西欧同盟(軍事同盟)設立など、冷戦下の欧州防衛体制の設立に貢献した。
英国の再出発は労働党という社会主義政党によるものだった。そこに本書のもう一つの狙いがある。著者はアトリーの人生をたどることで現代の欧州における社会主義の復権とその可能性を読者に示唆する。英国(欧州)の社会主義はマルクス主義とは一線を画し、「中流階級」による緩やかな「社会革命」だという。アトリーも道徳的で良識的な社会規範を重んじる、一途(いちず)な信念の持ち主でもあった。
しかし、矛盾の錯綜(さくそう)する現実の中では、アトリーの政策は人々に分かりにくくもあった。例えば、彼は第一次世界大戦後にできた国際連盟による集団安全保障体制の信奉者だった。対独伊融和政策もアトリーは断固として反対した。その一方で、国際連盟の集団安全保障体制を支持する立場から、ドイツに対抗するための軍備拡張にも反対している。
こうした著者の指摘は、各国が相互依存関係を深化していく今日の外交選択の難しさへ教訓を与えているようにも思われる。本書は長年英国政治を研究してきた筆者ならではの深い洞察に支えられたものであり、20世紀前半に大英帝国が衰退していく歴史的過程の政治史ともなっている。
その中での一人の政治家の格闘こそが、本書の醍醐味(だいごみ)である。欧州政治に関心のある読者には一読をお勧めする。
(渡邊啓貴・帝京大学法学部教授)
かわい・ひでかず 1933年生まれ。東京大学法学部政治学科卒業。学習院大学法学部教授などを経て現職。『現代イギリス政治史研究』『政党と階級』など著書多数。『ロシア共産主義 新装版』(B・ラッセル著)など訳書も多い。