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小説 高橋是清 第111話 日露戦争が残したもの=板谷敏彦

(前号まで)

 娘の和喜子が親友ヤコブ・シフのもとでホームステイをする最中、是清はシフですら難色を示す第6回公債発行に奔走、英国での公債発行を強行する。

 明治40(1907)年5月10日、高橋是清と深井英五は日露戦争にまつわるすべての資金調達を終えて帰国した。是清にとってはこれが人生最後の海外渡航になった。この時是清は52歳、日本銀行副総裁のまま横浜正金銀行頭取も兼ねている。また貴族院の勅撰(ちょくせん)議員でもある。

借金は23倍に

 ここで、日露戦争がこの後の時代に残したものを整理しておきたい。もちろん是清に関連する政治や経済的な視点からだ。

 まずは日本の財政に対する影響である。

 日本はポーツマス講和条約で賠償金を獲得できなかったことで、戦時中に国内外で借りた(公債発行した)借金が国家財政に重くのしかかることになった。

 開戦直前の明治36(1903)年の年末に、9820万円だった日本の内外の公債残高は1907年末には、内国債10億1000万円、外国債12億5900万円の合計約22億7000万円にまで膨らんだ。

 これは、この年の日本の推計名目GNP、37億4700万円の約61%であり、一般会計歳出、6億200万円の377%、つまり国家予算の約4倍にも相当した。

 また金本位制維持のための正貨残高は1904年の9700万円に対して1907年末は4億4500万円に増加したが、それは戦中戦後に積み上がった外債発行によるもので、その外債の利払いだけでも毎年6000万円から8000万円の正貨が確実に流出していくことに注意が必要なのだ。

 また日露戦争によって膨張した軍事費は戦後も規模が大きいまま陸海合わせて毎年約2億円の支出となり、一方で国内外の債券に対する元利返済、すなわち国債費も約2億円で推移した。

 これはすなわち1907年以降の国家予算約6億円のうち、3分の1ずつがそれぞれ軍事費と国債費で消えることになったのだ。思えば日露戦争開戦前、1903年の国家予算はわずか2億7000万円だったのである。

   *     *     *

 日露戦争を戦った第1次桂太郎内閣は1906年1月に第1次西園寺公望内閣と交代、その後も第2次桂、第2次西園寺、第3次桂と、大正2(1913)年の大正政変まで交互に政権を担った。

 陸軍を代表する長州閥山県有朋が桂の背後にあり、政党を代表する伊藤博文が西園寺の背後にあった。

 この日露戦後から大正政変までの時代は桂園時代と呼ばれるが、この時代はこれまで書いたように財政的に非常に苦しい時期だった。

 財政が苦しいとなれば国民にしわよせが行く、租税負担は非常に重かった。

 そもそも国民とメディアは日清戦争後の三国干渉に腹を立て、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)のキャッチフレーズが生まれたのだ。

 日清戦後の明治30(1897)年の国民1人当たり租税負担を指数化して100とする。臥薪嘗胆のこの時代でも十分に税負担は重かったはずだ。

 これが日露開戦の1904年が129、1905年139、終戦後の1906年152、1909年には199まで跳ね上がった。これはインフレ調整をしての指数である。つまり日露戦後の国民の税負担は臥薪嘗胆時の約2倍になったのである。

 では、国民にとって、何のための我慢だったのか、それは日本が列強に追いつき一流国になるための代価だと考えられた。

 そうであれば、「20億円の軍資金と10万の大和民族の血潮によって獲得された満州」という考え方は国民の間でも強化されていかざるを得ない。

   *     *     *

 もうひとつ、日露戦争は日本だけではなく、世界の軍備にも大きな影響を与えた。

 日露戦争の趨勢(すうせい)を決定付けた日本海海戦。この時の日本海軍の戦艦「三笠」以下主力12隻はすべて外国製で、そのほとんどが英国製だった。しかも英国は安物の2級品を日本に渡したというわけではなく、これらは世界最新鋭の戦艦であり、装甲巡洋艦だった。

 20世紀初頭のこの時代、覇権国家である英国と、その地位を狙う新興国家のドイツは戦艦の建造を競っていた。建艦競争と呼ばれるものである。

 英国は砲撃の効果や被弾状況など、日露戦争中の海戦をつぶさに調査した。

 その結果「多数の同一口径の主砲による一斉射撃が効果あり」という結論に達した。これはつまりひとつの戦艦により多くの同じ大口径の主砲を積み込むということを意味する。大艦巨砲主義である。

 日露戦争が終了して間もない1905年10月、英国は全く新しい設計思想の戦艦「ドレッドノート」を起工した。

 戦艦「三笠」は主砲が4門だったが、「ドレッドノート」は主砲が10門、片舷8門の一斉射撃が可能で、さらに艦を動かす主機も蒸気レシプロからタービンエンジンへと進化させ、最高速度も「三笠」などよりも3ノット速い21ノットが出せるようになっていた。

 つまり日露戦争を契機に戦艦における大きな技術革新が起こったのだった。こうなると従来の艦隊は陳腐化してしまう。どうあがいても「三笠」では「ドレッドノート」には勝てないから、各国は競争で新型戦艦を造り、艦隊を刷新しなければならなくなった。英国とドイツの建艦競争はいやが応でも過熱せざるをえなかったのだ。

 これは米国もフランスも、そしてもちろん日本海軍も同様であった。この日露戦争から第一次世界大戦にかけて世界の主要国の海軍はどうしても予算を必要としたのである。

帝国国防方針

 日露戦後の明治40(1907)年、是清が日本に帰国した頃、陸海軍は「帝国国防方針」を策定した。これは、いきなり仮想敵国が米国になったというようなドラスチックなものではなく、日露戦争で獲得した大陸の権益防衛が主眼であった。従って陸軍は仮想敵国をいまだロシアとして戦時50個師団を計画、そのために平時には25個師団が必要だとした。

 日露戦争前の陸軍は13個師団で戦時中に4個師団を増設、計17個師団となっていたが、1907年予算で新設2個師団分を確保、合計19個師団にまでなっていた。

 ここで、この年の7月に日露協商が成立した。

 米英が大陸での権益に触手を伸ばせば、これを守る日露両国の協調体制は強化されることになる。そのため、とりあえず陸軍の師団増設は急を要するものではなくなった。

 海軍は日露戦争を戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻の六六艦隊で戦ったが、戦後は軍備標準国(仮想敵国とまでは言えない)を米国とし、戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻の八八艦隊を計画した。

 海軍はロシアからの鹵獲(ろかく)艦船もあり、質はともかく量だけは大きくなっていたが、技術革新への対応は必要だったのだ。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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