経済・企業 名経営者は芸術を愛する
「音楽ビジネスのプロより、ただの音楽好きの素人のほうがいい」世界的指揮者リッカルド・ムーティ氏がIIJ会長鈴木幸一氏にかけた一言の意味
東京・上野で毎年桜の季節に開催される「東京・春・音楽祭」。
クラシック音楽ファンの心をくすぐるラインナップで、同時期開催の「ラフォルジュルネ」に勝るという評価も数多い。
同音楽祭の実行委員長を務めるのは、日本のインターネットサービスの草分けである株式会社IIJ会長の鈴木幸一氏だ。
「経営者はアートや教養に通じているべき」と言われるようになったが、日本の財界人の中で、芸術に造詣が深く、直接支援活動をしている人物はまだまだ数少ないのが実情だ。
そんな中、鈴木幸一氏の活動は異色とも言える。
鈴木氏と親交が深く、同音楽祭についても助言しているという、元東京藝術大学特任教授の瀧井敬子氏が、鈴木幸一氏とクラシック音楽の関わりについて語る。
鈴木幸一氏とその片腕である容姿端麗の辣腕女性
私が初めてお目にかかったのは、前述のように2006年の初夏のことである。
苦難と喜びの交錯した、その年春の「東京の森オペラ」が終わり、ムーティ氏からのエールで勇気づけられた鈴木氏が、未来図を描き始めようとされている頃だった。
おそらく鈴木氏にしても、なぜ瀧井と会わなければならないのか、わからないまま、「音楽祭運営に協力してくれそうだから会うように」という周囲の助言に不承不承従われたというのが、真実であったろう。
さて、銀座の指定の料理屋で私を待っていてくださったのは、鈴木氏だけではなかった。
その日、氏の隣に、容姿端麗の女性が座っておられた。
若さがあってフットワークもよさそうであった。
彼女の立ち振る舞いと会話への割り込み方の品のよさから、この方は仕事ができる、と私は直感した。
それが芦田尚子さんであった。
芦田尚子さんは関西の有名私立大学の経済学部を卒業。
梶本音楽事務所(現・KAJIMOTO)で企画・運営に携わっておられたが、2003年に同事務所を退職して、「東京のオペラの森」立ち上げに加わられたのだという。
鈴木氏が少年時代を過ごした思い出の地「上野」への思い
「いつか日本でも市民が喜びや悲しみを分かち合える音楽祭をつくれたら」という前述鈴木氏の夢には、拠点を上野に置きたいという、重要な前提条件があった。
これは、鈴木氏自身が中、高校生時代に上野公園の美術館や音楽ホールなどの「文化ゾーン」をぶらぶらしていた「思い出」に由来する条件だという。
しかも時期は、桜の花が満開になる季節の上野が、鈴木氏の希望であった。
そこで、私は長年懇意にしていた「上野のれん会」会長の須賀光一にご相談することにした。
須賀光一氏は明治から続く老舗レストランの経営者である。
氏のモットーは、「黒子のように、出しゃばらずに動くこと」。
私が須賀氏を心から尊敬する理由の1つは、このモットーにある。
第2次世界大戦の敗戦直後、上野は戦災で家族や仕事を失った人たち、親を失った子供たちがたくさん集まっている場所だった。
その暗く不幸な場所を明るく幸せな街へと再生ししようと、文化施設が集まる「上野の山」と江戸時代からの盛り場である「上野の街」をなんとかうまく繋ぎたい、と須賀光一氏の御尊父、利雄氏は考えられた。
そして、老舗の旦那衆たちに呼びかけられた。
上野のタウン誌を中心としたプロモーション活動が奏功する
お江戸以来の「麓の下町」は歴史の縦糸。
一方、東京国立博物館、科学博物館、西洋美術館、東京都美術館、上野の森美術館、東京文化会館が建っている「上野の山」はいわば近代日本の芸術文化が紡ぎ出す横糸。
この縦糸と横糸をつなぐために、利雄氏は月刊タウン誌「うえの」を創刊された。
「うえの」は、「1地域の目先の宣伝誌」では決してない。
「大きな視野で考えてほしい。当座は捨て金になるかもしれぬが、タウン誌を発行するためのスポンサーになってほしい」と、須賀利雄氏は呼びかけられた。
光一氏は、亡き父上の遺志をしっかり受け継がれた。
今や上野の山の博物館や美術館、いや東京藝術大学すら、「うえの」誌の会員として名を連ね、誌面でそれぞれの文化活動の様子を街の人々に知らせ、さらに啓蒙する活動までしている。
私は芦田尚子さんを須賀光一氏に引き合わせた。
須賀氏は先ずは、芦田さんが上野を好きになり、自然に親しみを感じるようになることが大事だと考えられた。
そのために彼女を、上野のあらゆるところに連れて行き、もちろん昔からの美味しい物もご馳走し、見聞を深めることに尽力して下さったのだという。
小澤征爾氏のオペラが好評を博するも、チケットが売れず払い戻しも経験……
鈴木幸一氏の夢は2005年に、その第1歩を踏み出していた。
小澤征爾氏を音楽監督に迎え、「東京の森オペラ」を創設、鈴木氏は巨額の私財を投じた。
鈴木氏には強い信念があった。
東京に住んでいる人、東京で働く人、東京で事業を行っている企業の人々が支援して、誇りをもってクラシック音楽のお祭りをすること。
決して公的資金に頼らないこと。
音楽祭「東京の森オペラ」の第1回では、フィレンツェ歌劇場との共同制作で新演出によるR.シュトラウスのオペラ《エレクトラ》のほかに、オーケストラや室内楽を含めて全部で8つの公演が行われた。
オペラは素晴らしかったが、しかし他の演奏会はほとんどチケットが売れず、客席が2割しか埋まらなかった。
鈴木氏の目には空のシートの赤色ばかりが焼き付き、「東京文化会館は『赤い劇場』だ」と思い知った」という。
2年目の2006年は、ウィーン国立歌劇場との共同制作でヴェルディのオペラ《オテロ》が計画された。
だが、小澤征爾氏が体調不良となり、やむなく指揮を降板。
代役の起用が、本番の前日になって発表された。
その結果、大量のチケットを払い戻すことになり、事務局は対応に追われた。
鈴木氏自身の言葉によると、「激震に見舞われた」のである。
大指揮者リッカルド・ムーティの招聘に成功し、音楽祭は軌道へ
だが、その1方で新たな救世主も現れた。ミラノ・スカラ座の音楽監督を辞任したばかりの大指揮者リッカルド・ムーティ氏が、鈴木氏の要請に応えて、ヴェルディの《レクイエム》の指揮を快諾されたのである。
この世界的にも著名なイタリア人指揮者が日本のオーケストラのタクトを振ったのはこれが最初で、歴史的な出来事であった。
親しくなったムーティ氏に、鈴木氏は相談された。
「私のような素人がただの音楽好きの素人が音楽祭を続けられるだろうか?」
するとムーティ氏は次のように答えたという。
「むしろそのほうがいい。音楽ビジネスのプロよりも、鈴木さんのように音楽を尊敬し、愛し続けられる人が音楽祭を発展させられる。私も応援しますよ。」
***
2009年、5回目の開催となった上野の春の音楽祭はこの年、「東京・春・音楽祭 ―東京のオペラの森」と改称し、新たなスタートを切った。
翌年からは、鈴木氏の念願の演奏会形式による「東京春祭ワーグナー・シリーズ」も始まった。
この原稿のために、事務局長の芦田尚子さんに、苦労話の一端を聞かせて下さるようにとお願いした。
以下は、芦田さんから頂戴したメモをまとめたものである。
「2008年までで、小澤征爾氏との企画が終了することになり、前年の夏から単身でヨーロッパの劇場・オーケストラ・音楽祭などを情報集めのために回るようになりました。
コロナ騒動が始まる去年までは、年に3~4回くらい行っていました。
自分の目で観て聴き、さらに歌劇場スタッフや海外在住の音楽関係者から情報を得て、よい人脈を作ることが必要だからです。
音楽祭の資金繰りのために、鈴木氏が毎回巨額の自腹を切っておられるのを見ていたので、貧乏旅行をしていました。
アムステルダムで、スーツケースも置けないような狭い部屋に泊まったときは、後で鈴木氏に報告したところ、女性なのだから、安全な場所に泊まりなさい、とさすがに注意されました(笑)。」
コロナ禍にも存続を望む声が多数寄せられた
コロナ禍は終息しそうにないが、安全対策をしつつ、音楽界は確実に動き出している。
2021年の「東京・春・音楽祭」はどうなるのであろうか。
今年は、公演のほとんどが中止となり、制作費の支払いや、チケットの払戻(約2億円弱)で大変だったというが、存続を望む応援の声が事務局に多く寄せられているという。
すでに300件近い寄付(数百万円)が一般の音楽ファンや各種企業からあって、もちろんその中には、上野の人々からの応援の浄財も入っている。
「東京・春・音楽祭」
東京の春の訪れを、音楽を媒介としたお祭りで祝う———
明治以来、日本における文化・芸術の集積地として発展を続けてきた上野公園を舞台に、桜の美しい時期に約1ヵ月にわたり開催する音楽祭。
オペラやオーケストラ、国内外一流アーティストによる室内楽をはじめとする演奏会から、街角で気軽に楽しめる音楽との出会いの場まで、200を超える演奏会を開催、様々な音色で東京の春の訪れを彩る。
www.tokyo-harusai.com
瀧井敬子(たきい・けいこ)
音楽学者・音楽プロデューサー。元東京芸術大大学特任教授。
2020年に第7回JASRAC音楽文化賞を受賞。主な著書に『夏目漱石とクラシック音楽』(毎日新聞出版)など。