『ナッジで、人を動かす 行動経済学の時代に政策はどうあるべきか』 評者・井堀利宏
著者 キャス・サンスティーン(ハーバード大学ロースクール教授) 訳者 田総恵子 NTT出版 2800円
「そっと突く」ことで誘導する 効果抜群の使用法に要注意
心理学と行動経済学を基に人間行動を研究する行動科学は、学術的にも実際の政策応用面でも注目されている新しい学問領域である。著者のキャス・サンスティーン教授は、リチャード・セイラー教授(2017年ノーベル経済学賞受賞)とともにこの分野の第一人者。本書で行動科学の重要な概念である「ナッジ」の有効性と正しい使い方を一般読者向けに解説している。
ナッジとは「そっと突く」という微妙な押しの表現であり、柔らかい仕掛けで人々を動かすことで、所与の政策効果を高めようとする行為を意味する。ナッジは強制を避け、選択の余地を残しつつ、低コストで政策目的を実現する。
ナッジの代表例はデフォルト(初期設定)である。私的年金プランを自動加入にしたら、大企業の従業員の貯蓄率が大きく上昇した。プリンターのデフォルト設定を片面印刷から両面に変えたら、紙の消費量が大幅に減少した──。
また、臓器提供リストへの登録を訴えるメッセージを送った結果、登録数が大幅に増えたケースのように誘導を操作するのもナッジの例である。ナッジは巨額の財政資金を必要としないので、途上国での貧困対策や開発政策でも応用範囲が広い。
そもそも、政府が人々を誘導・操作しようとする場合、福利、自律、尊厳、自治という四つの価値が大事だと著者は強調する。多くのナッジはこうした倫理的な観点からもっともらしい目的を持っているが、特定の人種的・宗教的多数派を優遇するなど、不当な目的で使用されるナッジもあり得るから、使い方に留意すべきである。
人々は通常、デフォルトに従うが、デフォルトが人々の意向と明確に相反する場合、それを拒否するだろう。したがって、ナッジの設定は人々の利益に合致するものであるべきだが、そもそも人々の利益が何かが実は悩ましい。なぜなら、行動経済学によると、人々の短期的な利益の追求は、必ずしも当人の長期的な利益の追求と整合的でない可能性があるからだ。政府が長期的視点で政策介入するのが望ましい状況は大いにあり得るが、人々はそれを余計なお世話だと感じるかもしれない。
ナッジは安上がりだから、政策として利用価値も大きい。ただし、その効果は一時的かもしれず、過大に期待することもできない。本書は、ナッジの有効性を認めつつも、それを丸のみにするのではなく、我々が自分の判断で熟慮する重要さも教えてくれる。
(井堀利宏・政策研究大学院大学特別教授)
キャス・サンスティーン(Cass R. Sunstein) 法学と行動経済学が専門。オバマ政権第1期において、米国大統領府の行政管理予算局下にある情報・規制問題室長を務めた。『シンプルな政府』『スター・ウォーズによると世界は』など邦訳多数。