週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用

ハンセン病を描く=坂口香津美・映画監督/821

「美しい物語とか感動にはまったく興味がありません。くさいものは嫌なんです」 撮影ー蘆田剛
「美しい物語とか感動にはまったく興味がありません。くさいものは嫌なんです」 撮影ー蘆田剛

 200本以上のドキュメンタリー番組を製作してきた坂口香津美監督が約9年にわたりハンセン病元患者の告白を記録したドキュメンタリー映画「凱歌」が公開されている。

(聞き手=吉脇丈志・編集部)

「過ちを繰り返さないためには『隠さないこと』が重要」

「撮影では、僕から『話して』とお願いしたことは一回もない。気づけば9年半がたっていた」

── 国立療養所「多磨全生園(ぜんしょうえん)」(東京都東村山市)に入所する元ハンセン病患者を追ったドキュメンタリー映画「凱歌」が11月28日から、シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)で公開されています。撮り始めたきっかけは?

坂口 最初から映画を作ろうと多磨全生園に行ったわけではありません。1998年秋に別の取材で山村留学に行く男の子の家に行くと、目の前に偶然あったのが多磨全生園。入所者が集まる自治会室に行ってみたものの、軽い気持ちでカメラを回せる世界ではありませんでした。何を撮ることもできないまま何度か通ううちに、施設側が「撮影に協力してくれる人はいませんか」って、入所者に声を掛けてくれました。

 そこで手を挙げてくれたのが、映画にも登場する元患者の中村賢一さんでした。ハンセン病患者を強制隔離する「らい予防法」が96年に廃止され、表向きは24時間自由になりましたが、彼の中にはどうぶつけていいのか分からない怒りとやり場のない感情がありました。撮影を始めたのは2009年11月。昨年5月にようやく撮り終えました。

── 撮影には9年半もかかったんですね。

坂口 この施設の中で何が行われていたのか、入所者の方々に真実を語ってもらうのに、時間がものすごくかかりました。過去は語りたがらないんですよ、きれいごとじゃないから。今さら語ってもメリットがあるわけでもない。黙っておけば、その方がいいと思うわけです。撮影では、僕から「話してください」とお願いしたことは一回もありません。気づけば9年半がたっていました。

破ってしまった「約束」

グリップ包丁の使い方を教える山内きみ江さん(右) スーパーサウルス提供
グリップ包丁の使い方を教える山内きみ江さん(右) スーパーサウルス提供

「凱歌」には中村さんに加え、中村さんと親交の深い元患者の山内定(さだむ)さん、きみ江さん夫妻が登場する。山内さん夫妻は多磨全生園の中で出会って57年に結婚したが、当時は園内での結婚の条件が夫となる男性が「断種手術」を受けることだった。半世紀を経て初めて語られる結婚直後の断種手術当日の様子など、実際に受けてきた体験を本人が自分の言葉で語っていく。

── 映画では、耳をふさぎたくなるような凄惨(せいさん)な体験談や生々しい描写が数多く語られます。

坂口 松本清張の小説が原作の映画「砂の器」(74年)では、ハンセン病患者の父と子の悲惨な境遇をセンチメンタルに描き、多くの日本人に違和感なく受け入れられました。しかし、患者を隔離した施設の中で何が行われていたのかについては触れられていません。それなしでは、ハンセン病を描くといっても上っつらの話になってしまうと思っています。

── ドキュメンタリー映画でも、心温まる話を求める人は少なくないのでは?

坂口 そのほうが多くの人に受け入れられやすいし、映画としてはヒットするでしょう。障害や病気がテーマの映画はだいたい感動があって、人間は美しいと描かれます。でも、事実はそういうものじゃないから。僕の映画は公開後、「こんなことを上映するなんて許せない」と怒る人が必ず来るんですよ。でも目をそむけたくなる事実こそ描きたいところですから。本質を描かないと納得できないんです。

── ただ、あまりにも重たい告白の数々です。撮影を続けられないと感じたことはありませんか?

坂口 10年に映画の中で中心人物である山内定さんが亡くなります。すぐに連絡が来て「撮影に来た方がいい」と強く言われたんですが、どういうわけか体が動かなかった。もちろん撮影した方が映画のシーンは充実することは分かっているんですが、どうにも気が進まない、余命数カ月と言われ続けてきた定さんを撮り続けていたので、もう十分じゃないかと。これ以上、定さんを追い掛け回したくなかったんです。

── 定さんも撮影されるのを望んでいたのですか。

坂口 映画の中には出てきませんが、「死んだ時でも坂口さんに撮ってもらおうじゃないか」とみんなで話していて、カメラも回していたんです。だけど僕は撮れなかった。約束を破ったんです。「撮れません」と答えたら、中村さんにものすごく怒られました。それから中村さんとしばらく連絡が取れなくなってしまって。多磨全生園の自治会を通して連絡を取ってもらい、撮影を再開することができました。

今も残る「排除」の思想

入院した山下定さん(右から2番目)のお見舞いで スーパーサウルス提供
入院した山下定さん(右から2番目)のお見舞いで スーパーサウルス提供

── 断種や堕胎までした隔離政策の本質とは何だと考えますか。

坂口 僕たちの中にある、余計なものや汚れのあるものを見せない、見せたくないという心理なのでは。全国のハンセン病の療養所では、堕胎された胎児の標本が作られていたことが分かっていますが、公開されることはありません。多磨全生園にもあったはずですが、いつのまにかなくなってしまった。取材の際に探しましたが、結局どこにあるのか分かりませんでした。

── 確かに、日本ではあまりに凄惨な状況は公にされることがありません。

坂口 被爆地長崎を舞台に製作したドキュメンタリー映画「夏の祈り」(12年)の取材の際にも同じことを感じました。米軍は研究のために原爆で亡くなった遺体を持って行き、数年たってから返却するのですが、その標本が保管されていたのは長崎大学医学部の研究室。この生々しい標本は本来は長崎原爆資料館で公開されるべきですが、大学の金庫という誰の目にも触れない場所で、ほこりをかぶった状態で保管されているんです。

── ハンセン病を詳しく知る機会が少ないですね。

坂口 ハンセン病の資料館で僕らが見るのはいわば“観光コース”で、国が見せたいようにプログラムしたパッケージ。本当に大事なものは人目につかない奥の倉庫にあって、日の目を見ることはありません。ハンセン病の実態をどこまで義務教育で教えているでしょうか。国家も僕らも、何事もなかったかのように振る舞うきらいがある。過ちを繰り返さないためには「隠さないこと」が重要です。

── 新型コロナウイルス禍でも、感染者や医療関係者が差別や偏見にさらされました。

坂口 らい予防法が廃止されてから来年で25年になりますが、日本人の中にある差別の意識は何も変わっていないことを、今回のコロナ禍でも思い知らされましたね。日本ではかつて、ハンセン病患者をすべて見つけ出して療養所に隔離しようという「無らい県運動」が官民挙げて展開されました。近隣住民同士が監視し合って、患者を排除する社会です。現代の僕たちの中にもそういう思想が残っていることを痛感しました。

 坂口さんは85年からテレビのディレクターとして、若者や家族をテーマにしたドキュメンタリー番組を200本以上製作。00年以降は引きこもりをテーマにした監督・脚本の劇映画「青の塔」(00年)、うつや認知症を患った実母にカメラを向けたドキュメンタリー映画「抱擁」(14年)など、身近な社会問題や実際に発生した事件に目を向けた8本の映画を製作してきた。

「無一文」から復帰

── ドキュメンタリーの世界に足を踏み入れたきっかけは?

坂口 芸能文化記事を書いていた通信社を辞め、荒れた10代の若者を取材した初の著書『誰も私に泣いてくれない』(現代出版)を84年に出したところ、TBSのプロデューサーから声を掛けられ、ドキュメンタリー番組を撮り始めました。ところが35歳の時に当時交際していた女性の部屋で、彼女が以前付き合っていた男性が自殺している場面に遭遇したんです。

 彼女とは結婚しようと話していましたが、あまりに衝撃的な出来事で、彼女とも別れてテレビの仕事も辞めました。無一文になって、その後2~3年は工事現場や電気店で働いたりしていましたね。そのうち以前お世話になったテレビ局のプロデューサーが僕を見かねて声を掛けてくれ、テレビの仕事に復帰しました。復帰後は人生の穴を埋めようと一気に番組製作にのめり込み、45歳までがむしゃらに作り続けました。

── その後、テレビから映画へと軸足を移します。

坂口 自分の考えに自信を持つようになっていった僕は、テレビ局のプロデューサーとけんかしてしまって。だんだん仕事が減っていきましたね。ある日、ゴールデン番組を作った後、フラフラになりながら渋谷の街を歩いていて、ふとユーロスペースという映画館に入って「セレブレーション」という映画を見たんです。衝撃を受けました。

── 衝撃とは?

坂口 富豪の還暦祝いに集まった一族の秘密が暴かれていくドラマですが、撮影に使っていたのは僕がいつも使っている手持ちカメラ。使っているのは同じ機材なのに、世界を相手にしたすごく深い作品を撮っていて、ものすごく驚いたのと同時にショックでした。もうこんなことやっていられない、俺も映画を撮るんだ、という衝動にかられ、半年後には撮り始めていました。

── 初めての映画「青の塔」では、引きこもりの男の子を主人公に、その内面世界や自立への目覚めを描きましたね。

坂口 ウィーン(オーストリア)のアポロ・シアターで上映された時、20歳くらいの女の子が「私はこの映画を見るために生まれてきた気がする」と号泣したのを見て、それから映画を撮ることにのめり込んでいきました。映画を作らされていく、導かれていく、というか、暗示を掛けられたようになっちゃって……。ただ、映画製作はものすごくお金も使うので、その後に苦労することになるんですが(笑)。

美しい物語はいらない

── 同じドキュメンタリー作品でも、テレビと映画で作り方に違いはありますか。

坂口 テレビ番組は型が決まっていて、表現できる領域に制約があります。映画では差別用語だって放送禁止用語だって入っているわけで、構成や表現方法は限りなく自由です。また、テレビではナレーションなどで次々に視聴者に情報を与えていきますが、映画ではあまり情報を入れません。映画を見る人を信頼して、見る人が想像できる領域を作ることが大事だと思うんです。

 大手の映画会社から声を掛けられたこともありますが、メジャーで作ればいろんな人の意見を取り入れて決まったやり方で作るので、テレビと同じになってしまう。それが嫌で映画を作っているので、断ってしまいました。ただ資金のやり繰りは大変ですよ。カメラも自分で回して、音声スタッフも役者さんにやってもらったり……。「凱歌」の製作資金もクラウドファンディングで募っています。

── 今後はどんな映画を?

坂口 小児がんのホスピスを舞台に僕の監督・脚本で製作した劇映画「海の音」の公開を予定しています。また、これからの人生最大のテーマは孤立と孤独。私も65歳になりましたしね。

「凱歌」はこの先、消えていく声の記録だから、上映する責務を感じます。自分の使命は何だろうと考えた時、僕は映像を作ることができる。映画に対する世の中の評価より、撮るべきものをとにかく撮り続けていくことだと思うんです。世の中に実在しないような、美しい物語とか感動にはまったく興味がありません。くさいものは嫌なんです。(ワイドインタビュー問答有用)


 ●プロフィール●

さかぐち・かつみ

 1955年鹿児島県種子島生まれ。75年早稲田大学社会科学部中退。文化通信社の記者を経て、85年からテレビのディレクターとしてドキュメンタリー番組などの企画演出を行う。若者や家族をテーマに200本以上のテレビドキュメンタリー番組を製作。2000年にひきこもりの青年の自立への芽生えを描いた「青の塔」で映画監督デビュー、ヒューストン国際映画祭シルバーアワード受賞。15年度文化庁映画賞受賞の「抱擁」ほか、8本の監督作品を劇場公開。

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