スノーボード・竹内智香が卵子の凍結保存を選択してまで「36歳での現役復帰」を決断した理由
2014年ソチ五輪のスノーボード女子パラレル大回転で銀メダルを獲得した竹内智香選手。18年平昌五輪後は競技から遠ざかっていたが、コロナ禍の今年8月に36歳で現役復帰宣言をし、日本女子史上最多となる6度目の北京五輪を目指す。(ワイドインタビュー問答有用)
(聞き手=元川悦子・ライター)
「雪上はやっぱり楽しい。北京五輪で最高の結果を」
「ネガティブな考え方では神様はほほ笑まない。挫折がソチでの銀につながった」
── 今年8月に現役復帰宣言をし、2022年の北京冬季五輪出場を目指すと表明しました。18年の平昌(ピョンチャン)五輪後はどう過ごしていたのですか。
竹内 自分の中では引退しようと考えていたんです。
実際、体の調子もよくなく、ひざや腰などにも故障を抱えていました。
でも、平昌の後、所属先の広島ガスの皆さんが「一回距離を置いて、好きなことをやりながら考えたらどうか」と進退の決断を待ってくれました。
その間、スポーツ庁が始めた「ハイパフォーマンスディレクター」(競技全体の強化促進に向けた環境整備をする人材)の育成制度に参加したり、地域貢献活動や次世代選手の育成に取り組んだりしていました。
── 現役復帰を決めたきっかけは?
竹内 このままセカンドキャリアに移るのもいいかな、と思っていたんですが、今年2~3月にスキーやスノーボードを楽しむ40、50代の仲間と出会ったことが一つのきっかけになりました。
子どものように雪山ではしゃいで滑ったりする姿を見て、自分もそういう気持ちを持っていたはずなのに、どこへ行ってしまったんだろうと。
仕事でしか雪の上には立つことがなくなっていた私に、雪上の楽しさを思い出させてくれました。
また、新型コロナウイルスの感染拡大で、自分と向き合う時間ができたことも大きかったですね。
── スポーツのイベントなどはすべて中止になりました。
竹内 いったん距離を置いた精神状態から、また競技に戻ってみるのも面白いなと思い始めていたところにコロナが拡大。
特に4~5月は講演などの仕事が全部なくなってしまったので、北海道旭川市の実家で山に登ったり、自転車に乗ったり、クロスカントリースキーをしたりしていました。体の感覚もだんだんよくなってきたのを実感し、自分と向き合う時間の中で「やっぱりもう一度、何か目標を持ってやりたい」という思いが強くなったんです。
ジムでのトレーニングを本格的に再開し、現役復帰を決断しました。
卵子凍結という選択
竹内さんの五輪初出場は、クラーク記念国際高校(北海道)在学中の02年ソルトレーク大会。06年のトリノ後にスイスに拠点を移して世界ランクを上げたが、10年バンクーバーは13位に終わった。11年に広島ガスが創設したスキー部に所属する形で帰国し、夏は東京、冬は海外を転戦する形で強化。14年ソチで悲願の銀メダルを獲得した。しかし、金メダルを狙った平昌では5位に終わり、競技の第一線から離れていた。
── 平昌は34歳。22年北京は38歳です。体の衰えに不安は?
竹内 私が20代前半に想像していた30代後半って、もっとおばさんのイメージがあったんです(笑)。
でも実際に近づいてみると、意外と経験値がプラスされていて、いい状態の自分がいました。
今年9月に4週間スイスで練習した時も、当初は週4日滑る予定でしたが、疲労を考慮して2、3週目は3日に切り替えました。
昔は「高いお金をかけてスイスまで来ているんだから1日でも多く滑りたい」と無理してでも雪上にいましたが、今は量より質。勇気を持った決断、行動ができるようになったのは大きいですね。
記録の方でも、遠征当初は世界トップに2秒近く離され、はじめは打ちのめされましたが、なぜ2秒離されているのか、その理由が経験のある今は明確に分かる。
ビデオを徹底的に見て滑りを分析し、最終的には0・5秒差くらいまで縮まりました。
お手上げの状態からここまで変われたのはすごく自信になりましたし、「まだ戦える」という手応えを持って帰国できたので、引退しなくてよかったです(笑)。
── 現役復帰に向けて、卵子凍結にも踏み切りましたね。
竹内 はい。
トレーニング方法も医学も進化しているので、以前に比べてアスリートの選手寿命は伸びているのは確かですが、卵子の老化は年齢とともに着々と進んでいきます。
子どもを持つ選択肢を残しながら、アスリートとしてのキャリアも出産も可能な状態でいたいと考えました。
同じように悩んでいる人にとって、あくまでも一つの選択肢として知ってもらえたらと思います。
── そもそも、竹内さんにとって五輪の意味とは。
竹内 本当に夢の大舞台ですね。
4年に1度、金メダルを目指して全力を注いできたわけですから。
今年の東京五輪がコロナで1年延期になり、今も開催に関して多くの意見がありますが、五輪は本来、世界の平和を願うスポーツの祭典です。
その後、商業化が進み、今回の事態に直面したわけですが、五輪の真の意味を考えさせられる大きな機会だと捉えています。
アスリートの一人として、東京五輪は可能な限り開催してほしいですが、自分は五輪があってもなくてもアスリートという仕事を全うするだけ。
自らを表現する場所がなくなったとしても、それを受け入れる覚悟は持っています。
スイスに直談判
スノーボードのパラレル大回転は、平行に設置された二つのコースを、各コース1人ずつ2人の選手が同時に滑降して速さを競う。コースの全長は400~700メートルで、滑り降りるのに1分とかからない。コースの途中には20~27メートルの間隔で旗門が設置され、高速でのターン技術に加え、同時に滑る選手との駆け引きも要求される。竹内さんは物心ついたころからスキーに親しみ、10歳の時にスノーボードを始めた。そのスピード感に取りつかれ、14歳で見た1998年長野冬季五輪を機に競技を本格的にスタートした。
── 最初の五輪は22位でした。
竹内 当時は「参加することに意義がある」という考えで、大会を機に競技をやめて大学に行き、別の人生を歩もうと思っていました。
でも、先輩の日本人選手が決勝を争う16人に残ったのを見て、「日本人でもやれるんだ」とスイッチが入りました。
でも4年後のトリノは9位。
「参加する」から「決勝に行く」と目標を一つ上げただけだったので、「なぜもう1段階上を目指さなかったのか」という後悔ばかりが残った。
このままではダメだと強く感じて、07年にスイスに渡りました。
── スイスでは、代表チームに直談判して練習参加にこぎつけたんですよね。
竹内 最初は「他国の選手の面倒はみられないよ」と言われたのですが、何度も頼んでいるうちに夏のキャンプ参加を許可され、08年春には本格活動できるようになりました。
条件は「トップ16維持」と「ドイツ語のマスター」。
それをクリアするため、3カ月で日常会話をこなせるレベルになりました。
ホームステイ先では、家族を大事にして人間らしい生活を送る大切さも学びました。
日本にいるとアスリートとしての立場や活動に縛られてしまいがちですが、竹内智香という1人の人間として過ごせたのは本当によかった。
── 世界ランクは一時3位まで上がりましたが、バンクーバー五輪は13位でした。
竹内 ショックでしたね。
スイスの環境の良さやレベルの高さを目の当たりにし、「スイス人として生まれ育っていたら」という思いを抱いてもいましたが、ネガティブな考え方では五輪の神様はほほ笑んでくれないと痛感しました。
自分が日本人であることは変えられないし、プラスに考えなければ何も始まらない。
東日本大震災が起きた11年に帰国を決断したのもそんな経験があったから。
信頼するオーストリア人コーチからも「日本という国にサポートされている気持ちになることが大事だ」と言われて心が定まりました。
── その後、広島ガスに所属したわけは?
竹内 広島県には親類がいて、スノーボードのイベントを自分で企画して開催したことをきっかけに、多くの縁ができました。
そんな中、広島ガスが11年10月、私のためにスキー部を設立してくれ、所属させてもらえる話になったんです。
夏場は東京でフィジカル強化に取り組み、秋から春にかけては世界各地を転戦する形を取りました。
その環境の変化もプラスに働き、14年ソチではついに銀メダルを手にすることができました。
「日本人の壁を越えられた」と感じられた瞬間でもあります。
── 金メダルを目指して全てを注いだ平昌は5位。不完全燃焼感が強かったのでは?
竹内 いや、あの平昌での5位は大満足でした。
決勝にも行けないんじゃないかというくらい状態が悪かった中で、最低限の成績を残せたと思います。
あの4年間は国から助成金をもらい、所属先やスポンサーから予算もいただき、ほしいもの全てが手に入る非常にいい環境で取り組ませてもらえました。
結果は出ませんでしたが、逆に自分が取ったメダルの価値や、それまで歩んできた過程にどれほど価値があったのかに気づけましたね。
物事を客観的に見られ、心に余裕が出てきている今、いいスタートを切れると思っています。
次世代育成に注力
竹内さんが平昌後、特に力を入れたのが、次世代のスノーボーダーの育成だ。昨年10月に旭川市に隣接する東川町を拠点とした育成組織「&tomoka」を設立。レベル別の4クラスを設けてコーチを付け、初心者向けの体験レッスンから上級者向けには欧州でのキャンプなどのプログラムを展開する。スポンサーや町からの支援も得て、竹内さん自身が遠回りもしながら得たスノーボードのノウハウを「すべて提供する」と意気込む。
── 「&tomoka」の現状は?
竹内 下は6歳から上は23歳まで16~17人が参加していますが、非常にポテンシャルの高い子ばかり。
みんなが目をキラキラさせて私の話を聞いてくれたりするのはうれしいし、励みになります。
最初は雪とボードだけ与えておけば自然とうまくなるので、ある段階まで行ったら選手、親、コーチが対等な立場で話せて、選手が自分で決断できるような形に持っていければいいですね。
私がいないと成り立たないプロジェクトでは意味がないので、長く続ける意味でも外からプロデュースする形にしたいと思っています。
── 日本のスノーボード競技環境をどう見ていますか。
竹内 全日本スノーボード選手権の参加者は一時期、すごく減ってしまいましたが、今は再び増加傾向です。
スノーボードを楽しんだ世代が親になり、その子どもたちが大会に出てくるようになってきたのかな、と。
スイスでは代表チームの選手同士がお互いを尊重し合いながら高いレベルで切磋琢磨(せっさたくま)している。
私が好タイムを出したりすると一緒に盛り上がったり、動画を見ながらアドバイスをしてくれたりします。
そういう環境を日本でも作れたらいいですね。
── 競技以外の活動を経て自分自身の変化はありますか。
竹内 我慢強くなりましたね。
平昌まではワガママなくらい競技最優先で打ち込んでいましたが、子どもを教える立場になって反対側から見る機会に恵まれました。
プロジェクトの立ち上げに向けて資金集めや営業もしたので、そうした経験も踏まえながら、北京に向けて100%でやり切りたいと強く思います。
11月から来年春までの長期間、海外を転戦しますが、やる以上はやっぱり勝ちたい。
アスリートとして全力を尽くし、最高の結果を取りにいきます。
(本誌初出 現役復帰を決断=竹内智香・スノーボード選手/817 20201117)
●プロフィール●
竹内智香(たけうち・ともか)
1983年、北海道旭川市出身。旭岳温泉の旅館「湯元 湧駒荘」の3兄妹の末っ子として育つ。10歳からスノーボードを始め、高校3年生で2002年ソルトレーク五輪に女子パラレル大回転で初出場。06年トリノ五輪後にスイスに練習拠点を移す。10年バンクーバー五輪は13位。帰国後に挑んだ14年ソチ五輪で悲願の銀メダルを獲得した。5位となった18年平昌五輪後、競技の第一線から離れたが、今年8月に現役復帰宣言した。