商店街ににぎわいを=市原正人 一級建築士、ナゴノダナバンク代表/814
かつては地域の生活の中心としてにぎわいを見せていた商店街だが、その多くは少子高齢化などで衰退が著しい。名古屋市西区の円頓寺(えんどうじ)商店街も例外ではなかったが、10年がかりで再生させたのが建築家の市原正人さんだ。
(聞き手=元川悦子・ライター)
「シャッター街こそ再生の可能性を秘めています」
「この街は面白い、と思えた名古屋・円頓寺。今では『パリ祭』に人があふれます」
── 毎年11月に円頓寺商店街で開催されている「秋のパリ祭」が、今年は新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいました。
市原 毎年100近い出店があり、盛大に行われるイベントなので、楽しみにされている人から「今年は何もないね」と残念がる声を多数耳にしました。中止によって商店街自体が大打撃を被ったわけではないですが、お店によってはこの時期にたくさん稼ぐところもあるんです。お肉屋さんのコロッケなんかは食べ歩く人が多く、一年で一番売れる時期だと聞きました。そういうお店にしてみれば、やはり影響は大きい。逆にパリ祭の価値を再認識する機会になったのは確かでしょう。
── そもそもパリ祭の由来は?
市原 商店街の店主の一人が「やろう」と言い出したのがきっかけで、2013年から始まりました。 円頓寺商店街には毎年7月に七夕祭という歴史の長いイベントがありますが、それとは全く違う趣向にしたいと。本物のパリをイメージさせるイベントを目指し、1年半かけて入念に準備しました。フランス大使館や航空会社の協賛も取り付けて、雑貨やアンティーク、花やパンなど本場でしか手に入らないような品々をそろえ、ディスプレーにもこだわったところ大盛況。このコロナ禍を乗り越え、来年はぜひ開催したいですね。
── 市原さんの奥さんも円頓寺商店街でお店を開いていますね。
市原 はい。アートやアパレルを扱う「ギャルリーペン」という店です。私が商店街の再生に本腰を入れ始めた09年、「ナゴノダナバンク」という空き店舗とテナントのマッチング組織を始動させたんですが、その第1号が妻の店でした。もともと僕は出店までは考えていなかったのですが、妻の作った洋服を卸していた店がなくなって出店を決意したんです。実際にお店を出すと、商店街の他の店舗から仲間意識を持ってもらえるようになりました。本気で円頓寺の立て直しをしようとしていることも理解してもらえ、大きな意味がありましたね。
「ナゴノダナバンク」
── 「ナゴノダナバンク」は仲介料無料の完全なボランティアだそうですね。
市原 はい。名前の由来は円頓寺商店街のある町名「那古野(ナゴノ)」と銀行の「バンク」、お店を意味する「タナ」を組み合わせたもの。街を良くするための「空き家再生プロジェクト」です。良いと思う場所があったら、そこを空き家と仮定して「こんなお店ができたら街がよくなる」と青写真を描き、借り手に声をかけて家賃も設定してしまう。そのうえで、所有者に「この建物を貸してください」と答えを出しやすい形で進めたんです。
その結果、スペイン料理やオリジナル懐石料理店など、2年間で5軒の新たなお店を出店でき、街が見違えるほどに活気に満ちあふれるようになりました。メディアにも取り上げられ、遠方からも人が来るようになって確かな手応えを感じました。
JR名古屋駅の北東にあり、名古屋駅と名古屋城との中間地点に位置する円頓寺商店街(30店舗)。古い蔵などが残る街並み保存地区「四間道(しけみち)」と隣接し、約200メートルのアーケードにレトロな雰囲気を残す飲食店や雑貨店などが並ぶ。手作り感あふれるパリ祭では、シャンソンやフレンチポップスのライブ、大道芸なども披露され、フランス国旗がはためくアーケードの下を人の波が埋め尽くすのは地元ではもはやなじみの光景。だが、そんな円頓寺もかつては閑古鳥が鳴く“シャッター商店街”だった。
── 本業は設計ですが、並行して商店街の再生にも取り組んだのですか。
市原 もちろんそうです。僕が設計事務所を設立したのは1990年。商業・医療施設、美容関係の建築設計が主な仕事で、北は北海道、南は沖縄まで顧客がいたので、僕自身も出張ばかり。事務所に戻ると深夜まで仕事をして、よく寝袋で寝転がっていましたね(笑)。そんな状態でも、円頓寺への思いが薄れることはなく、ナゴノダナバンクの活動に精を出しました。今考えれば仲介手数料をもらう方法もありましたが、ボランティアだからこそ理解者に恵まれ、多くの協力者を得られたのだと思います。
── 円頓寺商店街と関わるきっかけは?
市原 設計事務所の独立から5~6年後、那古野エリアの古民家改修を手掛けたのが始まりです。その時に知り合った近所のお年寄りが三味線と長唄の師匠で、「習わないか」と誘われたので、定期的に通うことになりました。弟子5人で愛知県芸術文化センター(名古屋市)の大ホールの舞台に立つことが決まった矢先にその師匠が倒れ、亡くなってしまいました。
その後、しばらく商店街から足が遠のいたんですが、師匠の「この街は面白い」という言葉が引っ掛かり、再び訪れると、あまりにもひっそりした雰囲気だったことに驚かされました。それなのに、一つ一つのお店にはお客さんがたくさん入っていて、熱気がものすごかった。そのギャップを目の当たりにして、「師匠の言う通り、この街は面白いな」と気持ちが高ぶってきた。そこから足しげく通うようになったんです。
再開発が失ったもの
── 歴史は古いのですか。
市原 1609年に徳川家康が名古屋で新たな都市造成を始めた際、蔵や家を建てる職人に食事を出す屋台が堀川沿いに出現し、これが円頓寺商店街の始まりと言われています。新幹線が通るまでは名古屋駅周辺は人通りは多くなく、円頓寺のほうがにぎわっていたそうです。ところが、市電が廃止されるなどした1970年代を境に徐々に衰退し、大型スーパーの出店や店主の高齢化も重なって、シャッターが閉まったままの店舗も増えました。こうした負のスパイラルは、僕が生まれ育った大曽根商店街(名古屋市北区)も一緒でしたね。
市原さんは大須、円頓寺と並ぶ名古屋市の「3大商店街」の一つに数えられた大曽根商店街の近くで生まれ育った。JR大曽根駅近くにあり、高度成長期には大にぎわい。アーケードでの七夕祭りは多くの人出であふれ返った。しかし、83年に名古屋市計画局主導で大曽根近代化推進協議会が発足し、再開発構想が練られ始めたころから状況が一変。区画整理事業は06年に完成したものの、当時の面影だけでなくにぎわいも消えうせてしまった。この記憶が今なお、市原さんに残り続けている。
── 大曽根の再開発はうまくいかなかったようですね。
市原 区画整理をするために商店の一部移転が始まり、商店街振興組合を脱退する店舗が増えてしまいました。店の移転費用は基本的に各店舗の負担なので、これを機に閉店してしまう店舗が続出したんです。区画整理事業の完成後も商店街に戻る店主は少なく、シンボルだったアーケードも撤去してしまったため、商店街らしさが完全に失われてしまいました。コンセプト先行の街づくりがいかに難しいかを、地元出身で建築家になった僕は改めて痛感しました。
── 円頓寺商店街の再生機運が高まる最初のきっかけは何だったのですか。
市原 07年の「那古野下町衆(那古衆)」という地域主体のまちづくり団体の結成です。商店街の外部メンバーが多かったんですが、はき物店「はきものの野田仙」を営む高木麻里さん、「化粧品のフジタ」の藤田まやさんも参加して、商店街を中心とした那古野エリアへ人を呼ぶにはどうしたらいいかを定期的に議論しました。イベントの企画や防災運動のほか、商店街マップやフリーペーパーも製作し、その活動の過程で空き店舗の増加が活性化を妨げる根本的な要因になっていることに気づきました。
── それが「ナゴノダナバンク」の発足につながったんですね。
市原 最初は那古衆の視察を通して知り合った六波羅雅一さんという建築家に話を聞きに行ったんです。六波羅さんは大阪・空堀商店街の再生のために孤軍奮闘された人。古い街並みを残すために空きテナントを借り上げ、新たな店主に入ってもらうよう仲介したことを教えてくれました。僕も同じようなことをやればいいと一念発起して、空き家を調査して所有者に貸す意思があるか、貸すとしたら幾らで、といったことを訪ね回るようになりました。
人が集まる「3条件」
── 所有者の最初の反応は?
市原 「(空き店舗に)物が入っとるでね」という反応が大半。円頓寺周辺は路地が狭く、小さな土地に建っている建物も多くて、有効活用しづらい条件がそろっていたんです。それで所有者は倉庫として使うケースが多かった。僕は空き家をうまく活用するために貸してほしかったんですが、「お前は誰だ」「何のためにやってるのか」と不審がられるばかり。結局、空き家バンクはすぐに挫折してしまい、「ナゴノダナバンク」として活動再開した時は、その教訓を生かしてより具体的な提案をするように心掛けたんです。
ナゴノダナバンクなどの取り組みにより、09年以降は30軒もの店舗が新規オープン。店舗跡の建物を生かしたゲストハウスなどインバウンド(訪日外国人観光客)向けの施設も誕生した。コロナ禍で今年4~5月こそ商店街は苦戦を強いられたものの、その後は飲食店のテークアウト需要が高まり、古民家を改造した宿泊施設なども予約で埋まる。魅力ある街なら、時代や環境が変わっても生き残れることを実証した形だ。
── 再生できそうな街や商店街の条件とは?
市原 店主など特徴ある店が効果的に配置され、街並みの魅力が残され、空間に余裕があって埋め尽くされていない。その3条件だと思います。円頓寺もそれを満たしているから、お客さんが足を運んでくれるのでしょう。
僕が六波羅さんから学んだ空堀商店街も数えきれないほどの魚屋があって、「こんなに魚屋が林立していて大丈夫?」と疑問に感じましたが、お客さんは「タイならここ」「サンマならあそこ」と決めて買っている。また、単に値段だけじゃなく、店主との会話やコミュニケーションも楽しんでいるんです。そういう個性や特徴を生かして、街全体を魅力あるものにすることが重要だと思っています。
── 全国を見渡して注目している商店街は?
市原 新潟市の「沼垂(ぬったり)テラス商店街」ですね。かつて「沼垂市場通り」と呼ばれていた商店街に今、約30店舗が連なっています。ある居酒屋のオーナーが空き店舗を全て買い取り、個性豊かなお店をテナントに入れて、朝市や冬市など各種イベントも開いているんです。寂れかけたシャッター通りの商店街は、見方を変えれば空き店舗が取り壊されずに残っているということ。十分再生可能だし、まだまだチャンスはありますよ。
── 今後も商店街再生の取り組みを手掛けていきますか。
市原 円頓寺との関わりはこれからも続きますし、建築設計事務所の仕事として今、愛知県内のあるターミナル駅の再開発に取り組んでいます。その駅の近くには古い街並みの商業施設が残っていて、昔ながらの面影を残しつつ、にぎわいを取り戻せるようにしたいですね。円頓寺の経験から言えるのは、やはり人の力の大きさ。どれだけ多くの人々を巻き込んでいけるかを頭にたたき込みながら頑張っていきます。(ワイドインタビュー問答有用)
●プロフィール●
市原正人(いちはら・まさと)
1961年名古屋市生まれ。80年市立工芸高校卒業後、建築設計事務所へ入社。自動車ディーラーのショールームやマンションなどの設計を手掛け、90年に独立して設計事務所を開設。2001年ファッション広告・飲食店などの事業を行うDEROを設立。09年に那古野エリア(同市西区)で空き家・空き店舗対策を行う「ナゴノダナバンク」を立ち上げ代表に。廃れかけていた円頓寺商店街を10年がかりで活気あふれる街に変貌させた。