教養・歴史ワイドインタビュー問答有用

「あたしと付き合うと有名になるから」79歳のヘンリ-・ミラーと結婚した日本人ジャズピアニストが語る作家の素顔

    「あたし、お嬢さまでねえやがいるような家に育ったから、自分で料理を作れないのよ」 撮影=蘆田 剛
    「あたし、お嬢さまでねえやがいるような家に育ったから、自分で料理を作れないのよ」 撮影=蘆田 剛

    アメリカの文豪と結婚し、日本における弾き語りの草分け的存在として日米をまたにかけて活躍、82歳となる今も、力強いタッチのピアノと歌声をライブで披露している。

    (聞き手=大宮知信・ジャーナリスト)

    「いつも今日が最後だと思って弾いてるの」

    「ヘンリー・ミラーからのラブレターは困ったな、って。読むのが大変だったのよ」

    ── 東京・六本木に構えていた元夫の米作家ヘンリー・ミラー(1891〜1980年)のメモリアルバー「北回帰線」で、ピアノの弾き語り演奏をしていましたが、昨年10月で閉店してしまいましたね。

    ホキ (入居するビルの)大家から、やめてくれって言われてね。「ここで死なれたら困る、あとをなんとかせないかんから」とハッキリ言われたんです。すごいショックでした。日本って冷たい国だなと思いました。別に血だらけになったわけじゃなければ、掃除すれば済むことでしょう。普通の家だって、代々誰かが死んでいるわけですから。

    ── 日本最高齢の現役ジャズピアニストと言われています。

    ホキ うーん、面倒くさいから別に訂正もしないけど、あたしの場合、ジャズというより弾き語りなの。あたしはどっちかというとクラシックのほうで、ジャズコードはアメリカの歌にだけ使う。あたしは必ず弾き語りですから。ピアノで自分の歌の伴奏をしているんです。あたしみたいに、一生弾き語りのライブを続けている人っていないんじゃないかしら。

    ── レパートリーは3000曲とも。

    ホキ もっとあるんじゃないかしら。あたし、絶対音感の教育を受けているので、一度曲を聞いたら譜面を見なくても弾けるんです。弾き語りってご存じ? ジャズからアメリカのオールディーズ、日本の歌謡曲、童謡まで、何でもやります。(突然両手を差し出して)ほら見て、あたし3歳からピアノ弾いているから、フィンガープリント(指紋)がなくなっちゃったの。

    ── いやー、見事にツルツルですね。

    ホキ ね、80年近くもピアノ弾いていると、こうなっちゃうのよ。指紋がすり減って、これなら何か犯罪をしでかしても指紋が残らないわね。宝石泥棒なんかやったら面白いんじゃない、アハハハ。

    出会いは卓球の勝負

     2010年にオープンしたバーの名前「北回帰線」は、奔放で生々しい性表現が問題となってわいせつ文書扱いも受けたヘンリー・ミラーの代表作だ。ホキさんが65年に渡米後、日本食レストランで弾き語りをしている時にミラーに見初められ、翌年に結婚。ミラーは75歳、ホキさんは29歳だった。女性遍歴豊富なミラーの“8番目の妻”となり、40歳以上も年齢差があったことも当時大きな話題を呼んだ。「遺産目当てでは」ともバッシングも受けたが、結婚生活は12年続いた。

    ── 猛烈なアプローチをかけてきたのはヘンリー・ミラーだったんですよね。

    ホキ その頃、あたしを狙って、毎日ピアノを弾いてるところへ来ていたんです。ロサンゼルスの「インペリアル・ガーデン」という大きな日本食レストラン。ハリウッドの近くで、お金持ちの人しかこなかった。日本に行ったことのない日系人が、すき焼きとか天ぷらを作っていましたね。

    ハネムーンでパリに到着したヘンリー・ミラー(左)とホキ徳田さん=1967年9月 Aflo
    ハネムーンでパリに到着したヘンリー・ミラー(左)とホキ徳田さん=1967年9月 Aflo

    ── 最初の出会いは卓球の試合がきっかけだと聞いています。

    ホキ ハリウッドのプロデューサーが、卓球をやってほしい人がいると。それがヘンリー・ミラーでした。こんなじいさんに負けてたまるかと、思い切ってやった。ヘンリーは汚い手を使うんですよ。卓球台の上に手を付くわ、台の上に乗っかってパカーンって打ち返すとか。もうルールがめちゃくちゃなんです。

    ── どっちが勝ったんですか。

    ホキ もちろん、あたしが勝ちましたよ。負かしたんです。ヘンリーをめちゃくちゃに。ハハハ。あたしはスポーツ万能だったんです。テニス、スケート、卓球もほとんど選手になれたぐらいで、体育の教師になって(出身の)桜美林(高校)に帰ってきてくれと言われたぐらい。ものすごく器用だったんです。

    ── ヘンリーは負けず嫌いだったんでしょうか。

    ホキ 負けず嫌いというより、ヘンリーはどうしてもあたしを落とそうとしたんです。それは(フランス生まれの作家で愛人の)アナイス・ニン(1903~77年)のためでもあった。アナイスにあたしを見せたかったのだと思います。(アナイスの日記を基に作られた)映画「ヘンリー&ジューン」は、アナイスとヘンリー、ヘンリー2番目の妻のジューンとの三角関係の映画なのよ。

    ── ホキさん以外にもアナイスという恋人がいたのですか。

    ホキ 彼は当てつけというか、あたしと付き合うと有名になることが分かっているから。だって新聞で大きく取り上げられたんですから、ヘンリーがホキのところに通い詰めているって。彼にしてみれば、そのアナイス・ニンという恋人に、インペリアル・ガーデンに出ているホキと今、仲良くしてるんだぞ、っていうのを見せつけたかったんです。

    永住権のために結婚

    ── ヘンリーは、文豪らしく膨大な数の熱烈なラブレターを送り続けたそうですね。300通に上る手紙を書いたという逸話が残っています。

    ホキ いやー、これは困ったなって。だって読むのが大変だったのよ。英語で書いてあるから。お店に持ってくるんです、手紙をね。郵便で届けられたものもある。そんなに読み切れませんよ。手紙は日本の出版社で本になっています(江森陽弘著『ヘンリー・ミラーのラブレター ホキ・徳田への愛と憎しみの記録』講談社)。

    ── ヘンリーは女性遍歴が豊富なことでも知られています。ホキさんも最初はヘンリーの猛烈なアタックを無視していたそうですが、なぜ結婚することにしたんですか。

    ホキ あたしは就労ビザが切れそうになっていたから、この人と結婚すれば永住権がもらえると思って、結婚という形を取ったわけです。それが嫌なら断ってもいいですよ、とヘンリーにも言ったんです。今、考えると、ある意味、良かったなと思う。そうでなきゃ向こうでちゃんとした歌手になって働いていただろうし、お金持ちと結婚していたかもしれないけど、そんなに面白い人生にはならなかったかもしれない。

    ── ヘンリーは絵も描いていました。子どものような自由な画風は日本でも人気があります。

    ホキ あたしにも絵をくれるんだけど、こんな下手な絵を見たことがない、って思ったぐらい下手でね(笑)。でも、なかなかいい絵なんですよ、もちろん。あんなに自由に描けていいなと。あんなにでたらめに描けて、うらやましかった。自画像なんかもすごくかわいく描いているの。あたしはその絵を描いている姿が好きでした。「あーあー」って下手な歌を歌いながら描くのよ。

    ── どんな結婚生活だったんですか。

    ホキ ヘンリーとの生活は面白かったですよ。だってこんなに下手な絵を描いたりして、本当にバカじゃないのと思うぐらい面白い人でした。あたしたちは変に仲が良かったですね。親子というより、おじいさんと孫みたいな関係。毎日ドライブやパーティーや旅行をするだけで、あたしは家事は何もやりませんでした。家事をやってくれる人が別にいて、ヘンリーがホキは何もやらなくていいと言うんです。

    ── 78年に離婚しましたが、なぜ?

    ホキ ヘンリーに好きな人ができたのよ。アメリカ人のモデル。ミス・ユニバースのアメリカ代表なんかにも出たことがある人。あたしも面倒くさいし、それでヘンリーが幸せになるんだったらいいんじゃないの、と思って別れることにしたんです。あたしも永住権を取るために結婚したようなものですから。ヘンリーとは一度も寝てないんですからね。

     NHK解説委員だった父を持ち、裕福な家庭に育ったホキさん。3歳からピアノのレッスンを始め、戦後を代表するジャズ歌手の笈田敏夫の父、ピアニストの笈田光吉から絶対音感の訓練を受ける。桜美林高校卒業後はカナダの音楽学校アルマ・カレッジに留学。「ホキ」の芸名は当時の旧友が「ヒロコ」をなまって「ホキ」と呼んだことからだ。

    ── お嬢さまとして育てられたようですね。

    ホキ ねえや(下働きの女性)が6人も7人もいて、あたし付きの「たつ」さんというねえやもいましたよ。あたしは東京・目白までピアノを習いに行き、戦争の時も疎開先の八王子でピアノを弾きまくっていました。ところが、戦争中の空襲でかやぶきの大きな家に焼夷(しょうい)弾が落ちて、すべてが丸焼けになっちゃった。ピアノどころか、本1冊も持ち出せませんでした。

    ── カナダ留学から帰国後、芸能界に入ります。

    ホキ そのころピアノが弾ける人って少なかったんです。永六輔さんとか黒柳徹子さんと同世代。最初は「スリーバブルス」というコーラスグループで歌っていました。ピアノだけじゃなく、あたし、歌も踊りも演技もできたので、松竹では4本の映画に出ました。あたしみたいな明るくて何でもできる人はいない、と。もう泣きつかれました。

    ── 東京・新宿で弾き語りもしていたそうですね。

    ホキ (作家の)野坂昭如さんとか吉行淳之介さん、(映画監督の)大島渚さんとかがいっぱい集まる新宿の「カヌー」というバーで弾き語りをしていたんです。ただ、あたしは英語も強いし、アメリカの方がお金になった。あたしがアメリカに行くって言ったら、いろんな先生から「ホキはここのアイドルなんだから行かないでくれよ」「俺たちの伴奏をしてくれよ」って引き留められたけど、日本に未練はなかったの。

    ピアノを弾き始めると、たちまちその場がライブハウスに 撮影=蘆田 剛
    ピアノを弾き始めると、たちまちその場がライブハウスに 撮影=蘆田 剛

    スタンダードのジャズでもシャンソンでも、何でもござれのホキさん。六本木の自宅にあるピアノを弾き始めれば、たちまちライブハウスに早変わり。アドリブで自由に演奏するのが持ち味だ。チャップリンの「スマイル」をリクエストすると、「えーっと、どんな曲だっけ」と言いながら華麗に弾きこなす。鍵盤をたたく指先は力強く、伸びのある歌声も衰えを知らない。

    「何か聴きたい曲は?」

    ── ヘンリー・ミラーが亡くなった後の89年に帰国し、国内でライブを中心に活動してきました。「北回帰線」が閉店した今、どんな生活を送っているんですか。

    ホキ 悠々自適どころか、ライブでピアノを弾いていかないと食べていけないのよ。70代で一度、一種の肺炎にかかって病院に担ぎ込まれたことはあるけど、体は健康です。健康法らしいことは何もやってないけど、弾き語りは声を出して歌ってピアノを弾くでしょう。指先を使うのが健康にいいのかもね。それに頭も使う。ただ、生活は自由気ままよね。夜が中心の生活で、寝たい時に寝て、食べたい時に食べて。

    ── ホキさんの即興的な演奏を聴くと、アメリカ的な自由な雰囲気が身にしみついている感じがします。

    ホキ そうかもしれない。若かった20代から40代ぐらいまで、一番多感な時代にアメリカに行ったわけじゃないですか。一人の音楽家として仕事をしてきて、その傍らでダンスもしたし映画にも出たし、ヘンリー・ミラーとも結婚した。面白い人生でしたよね。何か他に聴きたい曲はあります? 今日が最後かもしれないから……。本当に、いつも今日が最後だと思って弾いているんです。(ワイドインタビュー問答有用)

    (本誌初出 自由気ままに生きる=ホキ徳田 ピアニスト・歌手/813 20201020)


     ●プロフィール●

    ホキ徳田(ほき・とくだ)

     1937年、東京都生まれ。本名・浩子。桜美林高校卒業後、カナダの音楽学校アルマ・カレッジに留学。ピアノ、作曲、美術を専攻。卒業後帰国、芸能界デビュー。歌手、女優として活躍する。65年、弾き語りの仕事で渡米し、67年に小説『北回帰線』で知られる米作家ヘンリー・ミラーと結婚。78年に離婚し、89年に帰国。ミラー没後30周年を記念して2010年に東京・六本木でバー「北回帰線」をオープンしたが、昨年10月閉店。82歳。

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