「レールから外れた人生でもなんとかなるということを示したい」阪神淡路大震災を経験した教師がなぜ再び被災地である福島に移住したのか
高校3年生で遭遇した阪神・淡路大震災。その時の思いが、前川直哉さんを東日本大震災の被災地、福島へと駆り立てた。誰かを支える子どもたちを育てるために──。
(聞き手=種市房子・編集部)
「誰かのために学びたい子どもの気概に共感」
「レールを外れてもいい。生徒たちに身をもってそれを伝えたかった」
── 東日本大震災で学習環境に支障を来した児童・生徒を支援する一般社団法人「ふくしま学びのネットワーク」(福島市)を2014年に設立しました。
前川 中学・高校の生徒向けに効果的な勉強法などを教える無料学習セミナーを年2回、福島市と相馬市で開催しています。高校生向けセミナーの講師は、アルク社の英単語帳「ユメタン」シリーズの著者である灘中学校・高校(灘校、神戸市)の英語教師、木村達哉先生や、代々木ゼミナールで現代文を担当する藤井健志先生、「覆面の貴講師」として活動する数学の数理哲人先生で、毎回完全なボランティア。今夏は新型コロナウイルス感染拡大の影響で開催できませんが、落ち着いたら再開する予定です。
── 活動の根本たる「学び」はなぜ必要なのでしょうか?
前川 学ぶ理由は「誰かのため」だと、僕は考えています。困っている人のために力になろうとした時に、自分にも力がなければならない。僕はこのことを生徒に伝えるために、無料セミナーの最後に「カリスマ講師の先生方はボランティアで来てくれる。ありがたいよね。でも、もし授業があまり分かりやすくなかったらどう思う?」と投げかけます。カリスマ講師の先生は志だけではなく、地道に努力しているから上手な授業ができて、被災地の力になっているのだ、と気付いてほしいのです。
── 生徒は分かってくれますか。
前川 福島の生徒には伝わりやすいです。むしろ僕は、この考えを福島の子どもたちから教えてもらったようなものです。津波・原発事故被害が特にひどかった浜通り(太平洋沿岸の地域)の生徒たちからは「全国の皆さんにお世話になった。しかし、誰かの世話になりっぱなしの人生は嫌だ。いつか支える側にも回りたい」という気概を感じます。福島には誰かのためになりたいと学ぶ意欲を持つ子が多い。その意欲を育てるべく支援するのが、会の趣旨です。僕も阪神・淡路大震災(1995年)を経験したので、福島の子の気概に共感します。
阪神・淡路大震災に遭遇
前川さんはふくしま学びのネットワークの理事・事務局長として活動するだけでなく、18年4月には福島大学の特任准教授に就任。地域再生に向けた実践特修プログラム「ふくしま未来学」の一環として、「むらの大学」と銘打ったフィールドワークを担当し、学生が、長期間避難指示下にあった南相馬市小高区や川内村の住民から話を聞き、地域の課題やその解決策をリポートにまとめる指導に当たる。福島の復興・再生に情熱を注ぐ前川さんだが、もともと福島と縁があったわけではなかった。
── 兵庫県尼崎市の出身で、全国有数の進学校として知られる中高一貫の灘校に入ります。
前川 父は麻雀荘、母は喫茶店を経営し、特に裕福でもなく教育熱心な家庭でもありませんでしたが、私立中学受験を希望する僕の意思を両親は尊重してくれました。私立中学を受験したのは、地元の公立中学校が当時、校則が厳しいと聞いていたことがきっかけです。塾へ通って友達とわいわいやることも楽しく、勉強を頑張った結果、補欠合格で何とか滑り込みました。
── 阪神・淡路大震災は高校3年生の時ですね。
前川 大震災が起きた1月17日は、センター試験の2日後で、国立大学の2次試験対策の授業開始予定日。マンション5階の自宅では、父親がタンスの下敷きになり、弟と僕で持ち上げて助け出したりしたんです。灘中・高の校舎は遺体安置所や避難所になり、僕自身もしばらく勉強をする気になれませんでした。ただ、その最中でも担任や他の先生から掛けられた言葉が、後々自分が教育の道を目指すきっかけになりました。
── どんな言葉だったんですか。
前川 「震災で形ある物が壊れても、人が学んだことは壊れない。こういう大変な時だからこそ学ばないと」という言葉で、学ぶことによって復興の役にも立てるのでは、という動機付けができたのです。あの混乱の中でも先生が出願に必要な調査書を職員室から探し出してくれたりして、その年の受験に臨むことができました。東京大学文科三類に合格しましたが、両親の店が被災して実家の収入が途絶えてしまったのです。
── 大変な学生生活のスタートですね。
前川 入学金や授業料は免除されたのですが、下宿費は免除してくれません。幸い、僕は知人の紹介で、埼玉のお寺に半年間、無償で住まわせてもらいました。東日本大震災や最近の各地の豪雨被害でもそうですが、学生の教育支援は、入学金と授業料を免除して終わりではないのです。その後の生活や学ぶ環境を整えることが大事だと身をもって経験しました。
── 専攻はどのように決めたのですか?
前川 文学にあこがれましたが、語学の才能がないことが分かり、断念しました。生活費を稼ぐために始めた学習塾のアルバイトが楽しかったことや、震災時に灘校の先生からかけてもらった言葉が後押しとなり、教育学部を選択。ただ、教員免許は取らずに卒業して、アルバイト先の学習塾にそのまま就職しました。アルバイト時代から、授業だけでなく一つの校舎の校長を任されるなど、仕事がとても刺激的だったからです。
ジェンダー研究に関心
── ただ、その後は一転して教員を目指します。
前川 塾は楽しかったのですが、次第に自分の理想とのズレを意識するようになりました。たとえば、家庭の事情で月謝を払えなくなる塾生がいたとします。「じゃあ、ただで授業するから明日からもおいで」とは言えない。塾とは、常に教育にビジネスが絡む世界であり、限界を感じました。それならば公教育の世界に入ろう、と考え、26歳の時に塾を辞めることにしたのです。
── 教員免許はどのように取ったのですか。
前川 実家に戻ってアルバイトをしながら、佛教大学の通信課程で2年間かけて教員免許を取り、教育実習では灘校に行きました。その後、日本史の教員が年度途中で辞めることになり、僕に急きょ非常勤講師の役が回ってきたのです。非常勤講師時代は週に2日だけ灘校へ授業に行き、それ以外の日は京都大学大学院でジェンダー、セクシュアリティーの研究をしていました。灘校の正教員になったのは07年です。
── なぜ、大学院でジェンダーやセクシュアリティーの研究を?
前川 通信制大学での教員免許取得とアルバイトを掛け持ちしていた時、時間があったので本を読み、ジェンダー研究にひかれました。「僕が男でなければ、大学へ進学できたのか」「アルバイトで生計をたてられているのも、僕が男だからでは」「そうした特権を享受できる社会を誰より守ろうとしているのは僕自身では」などと疑問に感じたのです。それまで、男性の特権、男のゲタに思いが至っていなかったことはうかつでした。
── ここ数年は女性活躍の機運も高まっています。
前川 確かに理解は広がっています。しかし、子どもが生まれた時、一般的に男性は長期育休や離職、時短勤務などキャリアの変更・中断を考えなくてもいいですが、女性は真剣に考えなければなりません。これは男のゲタの典型例でしょう。こうした「ジェンダーの非対称性」も解消しない限り、ジェンダー問題全般の解決にはつながりません。
灘校で教鞭を執っていた11年3月、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が発生した。高校生の発案で12年3月、宮城県名取市や山元町でガレキ拾いなどのボランティア活動に行き、福島県の被災地では復興・再生に向けて懸命に取り組む自治体や病院関係者の生の話を聞く。前川さんも個人で岩手県へボランティア活動に行っていたが、生徒とともに被災地を回るうち、自身にもある思いが芽生えてきた。
「かっこいい大人」に
── 生徒たちは阪神・淡路大震災の前後の生まれだそうですね。どんなことを感じたのでしょう。
前川 みんなで丸一日、ガレキを片付ける作業をしても、ごく一部しかきれいになりません。テレビや新聞のニュースを見るだけでは分からない、復興への道のりの険しさを実感していました。その一方、地元の人から掛けられたお礼の言葉にも救われていました。福島県相馬市の高校生とも交流する機会があり、仮設住宅の暮らしやなかなか勉強に打ち込めない環境を聞いて、生徒たちに大きな変化をもたらしました。この交流はその後、定例化しています。
── 前川さん自身も大きな刺激を受けたとか。
前川 「かっこいい大人」が多いと感じました。自ら被災しながら経営するホテルを避難所として開放した人や、除染活動のボランティアに取り組むお寺の住職さんらを知り、大変な状況の中でも何とか前に進もう、少しでもふるさとを良くして次世代に渡そう、という懸命な姿に胸を打たれました。そして、こういう人たちと一緒に仕事をしたいと考えるようになりました。
── そして、14年4月、福島へ移住します。
前川 灘校は中学から高校まで持ち上がりで、6年間担任を受け持ちます。14年3月に、僕が最初に担任を受け持った生徒が高校を卒業しました。もし翌年度、中学1年生の担任を受け持ったら、また6年間は動けない。このタイミングしかない、と灘校を辞め、福島で「学びのネットワーク」を立ち上げました。ただ、最初は1人で貯金を切り崩しながらの厳しい活動でした。
── 安定した職を辞して、そこまでした原動力は?
前川 一つは福島を好きになったからです。被災地がかわいそうという気持ちからではありません。もう一つは、生徒に「レールから外れた人生でもなんとかなる」ということを身をもって示したかったから。多くの人には「レールから外れてはいけない」というプレッシャーがありますが「いや、そんなことはない」と伝えたかったのです。
── 震災から9年が経過しました。福島県の教育環境は?
前川 今の高校3年生は当時は8〜9歳。学習習慣を付ける大切な時期に、仮設住宅に住んで勉強机がなかった子や、さまざまな事情で何度も転校を余儀なくされた子もいます。長期にわたり避難指示が出されていた地域では、解除後もなかなか子どもが戻って来ていない現実もあります。時間が経過して、子どもが大きくなったからと言って、教育環境が元通りになったとは言えないのです。
── 今年3月からは、新型コロナの感染拡大を受けて県内の学校でも休校が相次いでいます。
前川 今回の休校に関して、親の負担にばかり焦点が当てられて、子どもの学ぶ権利が奪われているという報道が少なかったのは気になりました。子どもの教育が置き去りにされてはなりません。
── 多くの経験を経て、10年後の自分をどう描きますか。
前川 福島の子どもたちからは「他の場所で大災害が起きたら、今度はそこへ引っ越すんですか」と聞かれることもありますが「その時は、君たちが行ってください」と答えています。阪神・淡路大震災で被災した僕が福島で働いているように、福島で被災した人が今度は別の場所で誰かを支えるというケースが、これからたくさん出てくるでしょう。僕は福島が好きなので、これからもずっと住むつもりです。(問答有用)
(本誌初出 灘校教師から復興支援へ=前川直哉・福島大学特任准教授/809 20200922)
●プロフィール●
前川直哉 まえかわ・なおや
1977年生まれ。兵庫県尼崎市出身。99年東京大学教育学部卒業。2012年京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。灘中学校・高校教諭を経て2014年に福島に転居し、一般社団法人「ふくしま学びのネットワーク」を設立して理事・事務局長に。18年4月からは福島大学特任准教授も務め、ジェンダー、教育社会学、教育学を研究。