「栗原はるみの娘が魚もさばけないのか」悔しさをバネに魚の専門家へ 料理研究家として順風満帆の時に乳がん摘出……栗原友が波瀾万丈の人生を語る
「誰よりも魚のおいしい食べ方を知る」料理家の栗原友さん。乳がんが発覚し、乳房の全摘手術・予防切除を経て今、会社経営という新たなフィールドで羽ばたこうとしている。
(聞き手=市川明代・編集部)
「最悪を想定し、最善の策を採る。後悔はない」
「『栗原はるみの娘』ではなく私自身を信頼してくれる人との仕事を大事にしていきたい」
── 栗原さんと言えば、魚を使った料理教室を開いたり、魚の楽しみ方の本を刊行したり。“魚の伝道師”のイメージが強いですが、もともと魚料理は苦手だったとか。
栗原 魚は食べていましたし、刺し身やおすしは大好きでしたが、自分で調理するとなると話は別。スーパーに並ぶアジやイワシを見ても何の魚か分からないほどでした。料理の仕事をするようになってからも、魚を食材に選ぶことはあえてしませんでした。ところが10年ほど前、有名なフードジャーナリストの方と一緒に仕事をする機会があって、その場で突然、魚をさばくことになったんです。
── 動揺したでしょう。
栗原 鮮魚を目の前にして、何もできないわけです。あまりにショックで、何の魚だったかさえ覚えていません(笑)。私は料理家の栗原はるみの長女ですが、「あの栗原はるみの娘が魚もさばけない」と思われているに違いない、そう考えたら悲しくて悔しくて。「もうこれは、誰よりも魚に強くなるしかない」と思いました。
── それで、すぐに東京・築地市場に乗り込んで魚修業を始めたわけですね。
栗原 まず、築地市場の仲卸会社に電話をかけまくって、働かせてくれるところを探しましたが、「力仕事が多いから、女性ではちょっとねえ」って断られて。ならば場外市場の魚屋はどうかと、電話した1件目が、以後5年間お世話になる「斎藤水産」でした。
── 魚屋ではどんな仕事を?
栗原 魚屋の朝は、未明の仕入れから始まります。私は朝7時ごろ出勤して朝と昼のまかないご飯を作るのが主な仕事。店に立ってカキの売り子をしたりもしていましたが、なかなか魚に触らせてもらえない。店にアルバイトに来ていた和食の板前さんや、海洋大学の実習船の料理人さんをつかまえて、こっそり魚の絞め方や煮付けの作り方を教えてもらっていたら、ある時、社長に見つかって、「ここは学校じゃねえんだ」と。
── 怒られたわけですね。
栗原 はい(笑)。悔しくて、自宅で猛特訓しました。当時2号店で働いていたのですが、ある時1号店にいる社長のところへ昆布締めのタイを持って行くと、ちらっと見て「誰が作ったんだ」と。「私です」と答えたら、「よくできてるな。また作ってこい」って。ようやく認められた気がしました。
母の100倍詳しい
── 2016年の著書『クリトモのさかな道』(朝日新聞出版)には、12年から5年間の築地での修業で出会ったユニークな魚、おいしそうな魚料理がたくさん登場します。思い入れの強い魚は?
栗原 メヌケとスッポンかな。メヌケはメバル科の赤い深海魚で、脂がすごく乗っています。豚バラの角煮のようにじゅわっと、食べ応えがあって、レッドカレーにしたり蒸し物にしたり。スッポンは一般にはあまりなじみはないと思いますが、斎藤水産で扱っていたので、せっかくだからと料理法を一生懸命勉強しました。生きているのをさばいて下ごしらえをして、キノコや豚バラ肉と一緒に鍋にしたり、唐揚げにしたり。捨てる部位はほとんどありません。
── 市場で働くと、旬の魚が自然と身に付きそうですね。
栗原 その通りです。例えば、お盆の頃には、社長が初物のサンマをスタッフ全員にふるまってくれます。アジもイワシも、いい魚は刺し身はもちろん、揚げ物にしても最高だと分かったのも大きい。誰よりも魚のおいしい食べ方を知る料理家になったという自負はあります。少なくとも母の100倍は魚に詳しいですから(笑)。
母の栗原はるみさん、弟の心平さんは、料理家としてテレビの人気料理番組を持っている。自身は高校卒業後、雑誌編集や制作会社勤務などを経て、30歳の時、知人の紹介で料理の世界に入った“遅咲き”の料理家だ。08年に「株式会社クリトモ」を設立。順調に仕事が増えていく一方、「得意分野」が見いだせず、「このままでは『栗原はるみの娘』で終わってしまう」と焦り始めていた栗原さんにとって、「魚」との出会いはまさに絶好のタイミングだった。
── 随分遠回りしましたね。若い頃は、料理の世界に入ろうとは思っていなかったのですか。
栗原 考えたこともありませんでした。ただ、母のおかげで、料理の基礎は自然と身に付いていました。母は、例えばみそ汁なら、最初は簡単に顆粒(かりゅう)のだしを使うところから始めて、次は自分でだしを取って、具を考えて……と、順序立てて教えてくれました。私がレトルトカレーにマヨネーズとシーチキンを入れるとコクが出ることを“発見”すると、「おいしくしようと考えることが大切なのよ」と褒めてくれたりもしました。
── 築地で出会ったのは、魚だけではなかったそうで……。
栗原 斎藤水産に勤めていた夫と結婚しました(笑)。「クリトモ」では料理家の仕事のほかに、コンサルタントとして飲食店の開業やメニュー作りのアドバイスもしてきましたが、2年前に斎藤水産を辞めた夫が入社したのを機に、事業を「料理部門」と鮮魚卸の「水産部門」の2本立てに。水産部門では、市場で仕入れた魚を飲食店や海外のホテルに卸しています。新型コロナウイルスの自粛下で、ほとんどの取引先が休業して会社の収入が激減したので、持続化給付金を満額もらいました。
会社経営が軌道に乗り始めた矢先の昨年5月、左胸の乳がんが発覚。7月上旬、がんのある乳房を全て切除する「全摘手術」を受けた。術前の遺伝子検査で、遺伝子変異によって乳がんや卵巣がんを発症しやすい「遺伝性乳がん卵巣がん症候群」(HBOC)であると分かり、同時に右胸の乳房の予防切除にも踏み切った。卵巣の予防切除も予定していたが、コロナの影響で延期になっている。「まさか私が」
── 乳がんの宣告を、どう受け止めましたか。
栗原 海でボディーオイルを塗っているときに、左胸にゴリっとしたものがあるのを感じました。かなり大きくて、乳がんだと直感しました。「まさか私が」というのはこういうことを言うのか、というのが率直な感想でした。最初の病院で乳がんと宣告され、セカンドオピニオンを得るために行った2カ所目の病院で、リンパ転移の確率の低いステージ2、ただし再発しやすく悪性度の高い「トリプルネガティブ」であると分かりました。全摘手術を勧められ、それが最善の策なら受け入れるしかないと、その場で決断しました。
── 術前の遺伝子検査も医師に勧められたのですか。
栗原 「若くしてトリプルネガティブなので、がんになりやすい遺伝子を持っている可能性がある」と言われました。心配の種は全て潰しておきたいと思ったので、右胸の予防切除もお願いすることにしました。卵巣がんの発症リスクが高まるのは高齢になってからですが、卵巣の切除も早いうちに済ませておこうと思いました。
── 迷いはなかったのですか。
栗原 私は常に、最悪の事態を想定して、最善の策を採っておきたい人間です。一度決断したら、後悔しません。担当医はデータを見せて淡々と根拠を示してくれたので、信じてみようと思いました。がん治療では信頼できる病院や医師を見つけることが、とても重要だと思います。
── 術後の抗がん剤治療は、つらかったでしょう。
栗原 がんの症状や治療は十人十色と言われますよね。私の場合、抗がん剤治療で本当につらかったのは投与後の1週間で、その週の後半から楽になり、次の投与までのタイミングをみて子どもと旅行したりすることもできました。ただ、治療で髪が抜けたときだけは、ぽろぽろ涙が出ました。
でも、今は精巧にできた質のいいウイッグがあります。生え際には細かい産毛もあって、付けていても、誰もウイッグだとは気付きませんでした。決して安くないですが、半分は友人がカンパを募ってくれました。
── 5歳の長女、朝ちゃんが心の支えになったそうですね。
栗原 院内の臨床心理士が、子どものケアの仕方を丁寧に指導してくれました。子どもにうそをついてはいけない。ただ、「がん」という言葉は、その音も含め、子どもにとってとても怖いものなので、名前を付けるといいって。私は、胸に『美女と野獣』の悪役「ガストン」の妹がいることにして、「悪い奴を退治してもらうね」と伝えました。娘は「ママ可哀そう」と、ほんの少し泣きましたが、すぐに泣きやんで。
── 幼い子どもなりに理解できたのでしょうか。
栗原 そうだと思います。娘が私と同じ体質かもしれないという不安はありますが、「ママと同じ病気になるかもしれないから、大きくなったら検査をしようね。もしそうだと分かったら、ママが絶対に大丈夫なようにしてあげるから」と話して聞かせています。
── 今はどんな状態ですか。
栗原 昨年12月に抗がん剤治療を終え、現在は症状が消えて検査でも異常のない「寛解」の状態にあります。ただし数年間は再発の恐れがあるので、3カ月に1回程度は病院に通う必要があります。
秋には鮮魚店開店
── 現在、料理家の仕事は少しお休みしているそうですね。
栗原 闘病生活に入るまで、全国を飛び回って、料理教室を開き、講演し、雑誌に何本も連載を書いていました。術後1週間で仕事を再開し、たまっていたものを片付けた後は、料理家として表に出る仕事はほとんどしていません。抗がん剤治療で一時的とはいえ髪の毛を失い、人に見られることに抵抗を感じるようになったのも影響しているかもしれません。
ただ、がん治療を経て、「栗原はるみの娘」「料理家・栗原友」という名前でもらう仕事より、名前とは無関係に、私自身を信頼して長く付き合ってくれる人たちとの仕事を大事にしていきたいと考えるようになりました。何より今は、会社経営が面白くて(笑)。
── 会社経営のどこが面白いですか?
栗原 夫と二人三脚で地道にやってきたことが、成果につながっているのが大きいと思います。業務を拡大していくことで、どんどんクリエーティブなチャレンジができるのが醍醐味(だいごみ)。コロナ禍で大変ですが、日々ワクワクします。
── 今年6月末には、飲食店をオープンしましたね。
栗原 乳がんになる前、東京・目黒で、看板も出さない完全予約制の小さなお店をやっていましたが、治療でお休みし、「クリトモ式 混ぜ麺」という全く違うお店として再スタートを切りました。麺の上に大豆を使ったオリジナルの醤(ひしお)をのせ、物足りなければ豚の角煮と高菜漬け、ピータンなどのトッピングを加え、混ぜて食べます。
混ぜ麺屋の構想は、以前から温めていました。今度はしっかり宣伝して、稼ぎます(笑)。
── クリトモファンとしては、“魚の伝道師”としての活躍も期待したいところですが……。
栗原 魚は難しい食材です。さばくのが大変で、料理本も「売れる」とは言えません。うろこが飛び、血もたくさん出るので、料理教室では事前にしっかり養生して、後片付けにも時間をかけます。会場のレンタル代を考えるととても採算が合わないのです。
ただ、諦めてはいません。実は、今秋に築地で鮮魚店をオープンする予定です。そこでおいしい魚のお総菜を出しながら、魚の本当においしい食べ方を広げていくのが、今の新たな目標です。(問答有用)
(本誌初出 がんを受け入れて=栗原友・料理家/807 20200908)
●プロフィール●
くりはら・とも
1975年生まれ。東京都出身。高校卒業後、服飾専門学校で学ぶ。メンズファッション誌の編集や制作会社勤務などを経て、2005年から料理家としての活動を開始。12年から約5年間、築地「斎藤水産」に勤務。魚料理を中心に料理教室、雑誌やオンラインの連載、テレビ出演など幅広く活動してきた。主な著書に『クリトモの大人もおいしい離乳食』(扶桑社)、『クリトモのさかな道』(朝日新聞出版)。