子供に大人気!「顔面紙芝居」の大道芸人が味わった「絶望のどん底」
自分の顔を紙芝居の登場人物にしてしまう「顔面紙芝居」。
ピカピカ頭と変幻自在の表情で子どもたちを夢中にさせてきたが、誕生の背景には波瀾万丈の人生があった。
(聞き手=岡田英・編集部)
「子どもを本気にさせた、というのが最高の快感」
「絶望のどん底で浮かんだアイデアが紙芝居に穴を開けるきっかけでした」
── 「顔面紙芝居」を東京・井の頭公園(東京都武蔵野市、三鷹市)などで続けて22年。
今年は新型コロナウイルスの影響で公演できない状況が続きました。
ピカ 3月下旬に東京都立小金井公園でやったのを最後に、約半年間の公演はすべて中止になりました。
子どもたちを集めて、自作の歌を大声で一緒に歌い、お互いが「密」になって盛り上がるのが僕の得意技。
でも、コロナでそれができなくなった。
それで、3月中旬から(動画投稿サイトの)ユーチューブで、新作を作って配信し始めることにしました。
── どんな作品を?
ピカ 主に童話を自分流にアレンジして作っています。
例えば、『ガリバー旅行記』は前後編の2回に分け、前編はジョナサン・スウィフトの原作に沿い、小人の国にたどり着いたガリバーが国を追放されるまでを顔面紙芝居で演じます。
後半はその後、宇宙に飛び出した、というオリジナルストーリー。
宇宙から地球を見ると、回りには宇宙ごみがいっぱい漂っていて、さらに虫眼鏡でのぞき見ると、大国同士がいがみ合っている。
ガリバーが「けんかはやめろ」と怒って、前編の小人の国で火事をおしっこで消したのと同じように、地球に向かっておしっこをしたら、原爆を打ち込まれて追い払われる──。
地球に住む生き物同士がささいなことで争い合うばかばかしさを、子ども向けに伝えたいと思って作りました。
── ユーチューブではすでに30作品以上を配信しています。
ピカ ストーリーを考え、絵を描いて、自宅で練習して演じています。
最初は、気持ちを切り替えるのが大変でしたが、ユーチューブには自分の作品が残ります。
映画は製作にお金も時間もかかるけれど、1週間あれば自分の思ったことを表現した作品を作って残せることに、醍醐味(だいごみ)を感じるようになりました。
公演は1300日超
「私はピカよ、ピカピカよ。顔面紙芝居の始まり、始まり~」。
紙芝居の真ん中に空いた穴から、スキンヘッドの「ピカ」こと後藤功さんが顔をのぞかせる。自作の曲に合わせ、変幻自在の表情で子どもたちの目をくぎ付けにする。妻富子さんが傍らで場面の切り替えや司会をしてサポートする。公演は公園だけで通算1300日を超える。
── 私も昨年3月に2歳の娘と都立小金井公園で公演を見ましたが、子どもたちが食い入るように見入っていたのが印象的でした。
ピカ 夢中になった子どもは本気でぶつかってくる。
こっちも必死です。「妖怪だ~」と向かっていくと、正義感の強い子ほど全力で体当たりしてきます。
紙芝居を破かれたり、支柱の竹の棒をぐにゃぐにゃに曲げられたりすることもある。
でも、終わった時、うれしいんですよ。
子どもを本気にさせた、ということが。最高の快感ですね。
── 顔面紙芝居は最初から子ども向けだったのですか。
ピカ 1998年に原宿の歩行者天国(ホコテン)で最初に始めたときは、大人向けでした。
「ムンクの叫び」を模した絵の顔のところに穴を開けて顔を出したりしていました。
当時、子どもはやかましくてあまり好きじゃなかった。
でも、3、4年続けるうちに子連れで見に来てくれる人が出始め、その子の成長を見たり、話をするうちに、たまには子ども向けをやってみようと試し始めたんです。
子どもも自分も同じ人間で対等だ、という意識でいろいろと工夫をしていくと、だんだん心をつかめるようになってきました。
「東京乾電池」名付け親
── 子ども向けに「はまった」演目は?
ピカ オリジナルの作品の「おへそのうた」ですね。
「僕のおへそは不思議だな お食事するとふくらむよ」と僕が歌った後で、みんなで一緒に「へそ、へっそ、へそ、へっそ、おへそよ」と合唱する。
今でも最も盛り上がる演目の一つです。
でも、最初は「おへそ」じゃなくて「おちんちん」で作って保育園でやったら、かなり怒られまして。
それで「おへそ」にしたら、ママさんたちも一緒に歌ってくれるようになり、子どもからも「お風呂に入っている時も、バスに乗っている時も歌ってるよ」と言われるようになったんです。
そんな声を聞くとわくわくしますよね。
そのあたりから、子どもがすごく好きになったんです。
── 顔面紙芝居だけで生活できるのですか。
ピカ 公園でやっている投げ銭の公演はお金になりません。
公演の中でやっているクイズで、正解した子どもにあげるグッズも手作りで、作るのに1日かかります。
でもそれはしょうがない。
だから、保育園や児童館、スーパー、お祭りといったイベントでの営業公演を取れるように頑張っています。
ピカさんは岩手県花巻市の印刷会社の三男として生まれた。
高校を卒業した64年、実業家を目指して上京し、東京・日本橋にあった帽子専門の卸問屋に入社。デパートやスーパーの仕入れ担当者を回り、営業成績はトップクラスだったが、約6年で独立した。東京都内のビアガーデンを中心に活動するイベントプロデュース業を旗揚げした。そこで、ひょんなことから俳優の柄本明さん、ベンガルさんらが所属する劇団「東京乾電池」の名付け親となる。
── もともと実業家志向だったのですね。
ピカ 独立後、東京・新宿のビアガーデンで、のど自慢のような参加型のイベントを企画したりしていました。
失敗の連続で、一時は大きな借金を背負い、日本橋の牛乳配達店に住み込みで働いたり、キャバレーのボーイから腕時計の訪問販売まで何でもやりました。
── なぜ「東京乾電池」の名付け親に?
ピカ イベント業で盛り返してきたころ、ビアガーデンのDJが「コントをやりたい人がいる」と紹介してくれたのがベンガルさんでした。
彼は柄本明さんと綾田俊樹さんを連れてきたのですが、コントをやってもらう前日になってもユニット名がない。
「明日までに考えて」と言ったんですが当日、誰も考えてこなかった。
それで僕が、とにかく元気だけはいいから「東京乾電池でどう?」と言ったら「いいじゃない」と。
客には受けなかったけど、一生懸命やっているから、ビアガーデンの他にもパブなどにも引っ張っていきました。
彼らが76年12月に「浅草木馬館」という劇場で旗揚げ公演をやった後は、お互いだんだん離れていきましたけどね。
「怪人ハテナ」で脚光
イベントの企画・運営という「裏方」だったピカさんを「パフォーマー」に駆り立てたのは87年、東京・原宿のホコテンでの体験だった。白装束にプロレスラーのような覆面をつけたオリジナルのキャラクター「怪人ハテナ」に扮(ふん)し、懸垂を50回以上こなしたり、分厚い漫画雑誌を一気に引き裂いたり、フラフープ10本を体で同時に回したり──。多い時は1000人近い見物客を集め、数々の週刊誌やテレビ、新聞に取り上げられた。
── なぜ「怪人ハテナ」を。
ピカ 当時、バーでDJをやりながら、店で懸垂の回数を競って客が勝ったらウイスキー1本をプレゼントするといったゲームをやっていたんです。
最初は懸垂なんて3回くらいしかできず、負けてばかり。悔しくて、めちゃくちゃ練習した。
すると50回以上できるようになり、ホコテンで試そうと始めました。
雑誌破りやフラフープもバーでやっていた余興です。
ホコテンでは投げ銭は受け取らず、僕は言葉を発さない謎の男に徹し、通行人が挑戦して勝ったら賞金をあげるようにすると、予想以上に見物人が集まりました。
デパートの屋上などで営業公演も入るようになった矢先、昭和天皇の崩御(89年1月)で自粛ムード一色になり、こうしたイベントは一気に開けなくなりました。
── その後は?
ピカ 新宿の高級クラブでなんとか仕事にありつき、酔客相手に頭にターバンを巻いたインド人の格好をして踊ってはチップをもらっていました。
ピエロのようなものです。
バブルの最中でチップはよく、それだけで生活できるほど。
でも金銭感覚がおかしくなり、朝方に自宅に帰ると息子と妻の前で札をばらまいたりして……。
「このままじゃだめだ」と思ったんです。
勤めていたクラブを辞め、ビデオ店でアルバイトをしていた時、チャップリンの「ライムライト」や黒沢明の「羅生門」といった名画のビデオを見て、自分も何かを残したい、悔いのない仕事をしたい、と思いました。
そこで92年ごろから始めたのが、創作の一人芝居です。
ほとんどの人は首をかしげていましたが、自分で自分の思いを表現したいと思いました。
「井戸の底」がヒントに
── それがどう顔面紙芝居につながったのですか。
ピカ いろいろと試行錯誤する中で、巨大な紙を使った紙芝居もやったりしましたが、観客の反応はいま一つで、行き詰まっていました。
実はその頃、大学生になった息子が薬物に手を出し、幻覚症状で入退院を繰り返し、一時は面会に行っても親と分からないほど。
息子のことも重なって、まるで暗い井戸のどん底に落ちた気分だったのを覚えています。
そんなある日、病院に面会に行った帰りに立ち寄ったドーナツ店で、動かなくなった回転木馬の天井にドーナツ状の輪がありました。
薄暗い店内から見上げると、まるで井戸の底から見える穴のように見えた。
そこで、ふと「そこから顔を出したらどうだろう」と思いついたんです。
絶望のどん底で浮かんだアイデアが、紙芝居に穴を開けるきっかけでした。
── 観客の最初の反応は?
ピカ 試しに原宿のホコテンで「ムンクの叫び」の絵を描いた紙芝居に穴を開けてやってみたら、遠巻きに女性が2人ちらちらと見ているのが見えた。
これはいけると思いました。
翌週もやったら、1人の客が「これ面白いよ。ホコテンはバンドの音でうるさいから、静かな井の頭公園にでも行ってやったら」と声を掛けてくれたんです。
そこで、98年5月から井の頭公園に立ち、顔面紙芝居を始めました。
退院した息子もリハビリを兼ねて連れて行き、手伝ってもらいながら11年間一緒にやりました。
── 二人三脚だったんですね。
ピカ 息子は手伝ううちに少しずつ良くなり、立ち直った。
今は結婚して、介護の仕事をしています。
一時は再起不能とまで言われた息子がいたからこそ、僕も成長できた。
それまでは自分のやりたいことをただやっていただけで、他人の苦労や痛みが少しは分かるようになったと思えます。
苦しい時期があったからこそ、自分自身が強くなれたと思います。
── 今年10月になって公演も再開したそうですね。
ピカ 人前で演じたのは半年ぶりです。
千葉県木更津市の保育園で、互いに2メートル以上の距離を取って、大きな声は出さずに『ガリバー旅行記』を演じました。
最初は不安もありましたが、かなり気合いが入っていたのもあり、ガリバーになりきって内容でぐいぐい引っ張れたと思います。
紙芝居の原点に戻れば、距離を取ったとしても大丈夫。
ぱっと出る子どもたちの笑顔を見て、そう思いました。
── 子どもの笑顔はいろんなことを吹き飛ばしてくれますね。
ピカ ただ、子どもたちの中には、どうしようもないいたずら小僧もいます。
無視するのは簡単だけど、そうするとその子はそのまま。
だからうんと怒ります。
あと何年できるか分かりませんが、できる限り、子どもたちには真剣勝負で向き合っていきたいですね。
(本誌初出 紙芝居から顔出し22年=ピカ・大道芸人/816 20201110)
●プロフィール●
ピカ(ぴか)
本名は後藤功。1945年、岩手県花巻市出身。64年同県立花巻北高校卒業、上京して東京・日本橋の帽子専門の卸問屋に入社。70年に独立し、ビアガーデンやバーなどでDJやイベントマネジャー・プロデューサーとして活動。87年、東京・原宿の歩行者天国で「怪人ハテナ」として懸垂や漫画雑誌を破るパフォーマンスで注目を集める。98年、顔面紙芝居を考案、井の頭公園で公演を開始。東京都内の公園や、保育園や祭りなどで公演を続けている。75歳。