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週刊エコノミスト Online ワイドインタビュー問答有用

核実験の真相を追う=川口美砂 映画「放射線を浴びたX年後2」出演者/823

「若い人にも放射能の怖さを知ってもらいたい。そんな使命感で続けています」 撮影=蘆田剛
「若い人にも放射能の怖さを知ってもらいたい。そんな使命感で続けています」 撮影=蘆田剛

 1本の映画が、その後の人生を変えてしまうことがある。映画館内で川口美砂さんを突き動かした「この映画を作った監督に会いたい」という思いは、やがて続編への出演、そして父の死の真実と向き合う運命をもたらした。(ワイドインタビュー問答有用)

(聞き手=北條一浩・編集部)

「父の死との関係は不明でも、誰も教えてくれなかった」

「出身地・室戸の漁師の間では、放射能の話はタブー。それでも少しずつ口を開いてくれた」

── 米国の核実験の真相に迫るドキュメンタリー映画「放射線を浴びたX年後2」(2015年)では、川口さんが最も多く画面に登場します。

川口 私の故郷である高知県室戸市で、マグロ漁船に乗っていたおんちゃん(元漁師)たちに話を聞いて回りました。1954年に南太平洋のビキニ環礁で行われた核実験に遭遇してしまった人たちです。私はそうした人たちの話を聞き、ノートを取る立場だったので、その様子をカメラに収めるにあたり、私の露出が多くなりました。

── なぜ映画に関わることになったのですか。

川口 私はもう30年以上、東京に住んでいますが、盆暮れには毎年必ず室戸に帰ります。13年の夏、室戸で母をみてくれている妹から「おんちゃんたちの映画があるけど、見に行かん?」と誘われ、一緒に見たのが「放射線を浴びたX年後」です。映画では、ビキニ環礁での核実験がその後にもたらした重大な被害について地道に調査するローカル放送局のディレクター伊東英朗さんの姿が映されていました。そしてこんなにも多くのマグロ漁船が被ばくしていたことに衝撃を受けました。

── どんな映画か、知らずに見た?

川口 漁師が出てくるということ以外、内容も監督のことも何ひとつ知らずに見ました。ビキニ環礁の水爆実験といえば、静岡県焼津市を母港としていた有名な「第五福竜丸」だけだと思っていたんです。伊東英朗監督は、私が出演した「X年後2」の前作(「放射線を浴びたX年後」(12年)を、04~12年の8年間にわたる長期取材を経て完成させました。

 毎回苦労して証言を集めようとしている監督に対し、室戸が地元の私なら、当事者探しや取材交渉などで役に立てるのではないかと思いました。

不十分な被ばく調査

 米国と英国は46~62年、マグロ漁場の太平洋で110回の核実験を実施。54年3月1日に第五福竜丸の被ばくが明るみに出ると、日本政府の放射能検査が行われるようになり、延べ992隻もの被ばく船が見つかる。しかし、検査は10カ月で打ち切られ、日本政府は55年、米国から「見舞金」として200万ドル(当時で約7億2000万円)を受け取って政治決着を図った。

「放射線を浴びたX年後」では、実際に放射能を浴びた存命中の元漁師を何人も丹念に取材した。マグロ漁船の被ばく状況についての実態調査が不十分なこと、日本を含め太平洋の広範囲に降り注いだ放射性降下物の影響を国が検証しようとしないことを告発。そして、核実験の被害の全容が今なお解明されず、新たな被害が生み出され得ることを問題提起する。

── そうした漁師たちの中に、68年に36歳で亡くなった父・一明さんもいたのですね。

川口 医者からは当時、心不全と言われましたが、死因が何だったのかは分からないままでした。マグロ漁船の漁師は糖尿病に苦しむ人が多く、父も晩年は糖尿病で入退院を繰り返していたので、それが何かしら父の死と関係したのかと思っていました。私自身、伊東監督に接触した時は、映画の衝撃と父の死をまだ直接つなげて考えてはいなかったのです。

 ところが、伊東監督に最初に会った時、父の乗っていた船の名前や年齢を聞かれ、被ばくの可能性を知らされて意識が変わりました。やがて「X年後2」の取材活動が始まり、15年8月に厚生労働省に個人情報開示請求をしたところ、父の乗っていた第2大鵬丸が54年5月22日に東京港築地入港時、第5豊丸が同年9月9日の大阪港入港時、それぞれ水揚げ時に放射能検査が行われ、積載魚類を廃棄処分されたことが分かりました。

── やはり、お父さんも被ばくしていた可能性があったのですね。

川口 はい。今も父の死と放射能との因果関係は不明です。父が死の直前、高知市の病院から退院した時、おみやげに父が好きだった歌人、石川啄木の伝記を買ってきてくれたことを覚えています。それが最後のプレゼント。その本をくれた翌朝、父の心臓が急に止まってしまいました。

 父は生前、被ばくについては何も語っていませんでしたが、少なくとも当時、政府が被ばくの可能性を知らせてくれていたら、と強く思います。

「今ごろになって何だ」

元漁師に取材する川口さん(右) 映画『放射能を浴びたX年後2』
元漁師に取材する川口さん(右) 映画『放射能を浴びたX年後2』

── 映画の中では、伊東監督が漁師たちから「来るな」「帰れ」と怒号も浴びせられる場面もありました。

川口 伊東監督も私も、最初はまったく、おんちゃんたちから相手にされません。「今ごろになって何だ」と。その通りです。遅すぎるんです。そうした怒りの他に「触れたくない」「思い出したくない」気持ちも強いと思います。そもそも室戸では放射能の話はタブーでした。だから私たちも何も聞かされず、映画を見るまで無知なままでした。

 漁業で生計を立てている町なので、放射能に触れるのを避けるということと、外部から差別されるという意識があるんです。漁師の中には室戸出身だとバレないように、船員手帳の一部を破いて捨てた人もいたといいます。

── それでも話してくれる「おんちゃん」が何人もいました。

川口 映画に出ているのはごく一部ですが、およそ80人に会いました。そして粘り強く何度も通いました。少しずつ話せるようになり、自分の父も室戸の漁師だったこと、父が亡くなったことと放射能のことをちゃんと知りたい、という気持ちを伝えると、態度も柔らかくなっていきます。また、私たちの社会が東日本大震災と福島第1原発事故を経験したのも、非常に大きな変化だったと思います。

── 伊東監督の最初の映画「X年後」の公開は3・11の翌年ですね。

川口 伊東監督が愛媛県のテレビ局「南海放送」で約8年にわたり、ビキニ事件についてドキュメンタリー番組を放映し続けていた時は、視聴率も低く、ほとんど誰も関心を持とうとしませんでした。しかし、3・11以後は、注目度もまったく異なり、いくつもの賞を取ったばかりでなく取材も殺到しています。

 3・11の影響は本当に大きくて、室戸のおんちゃんの中にもいろいろ勉強された人もいます。そして、下船してすぐ白血病で亡くなる仲間がいたり、自分がその後、ガンになったりしたのも、あの時に浴びた放射能と関係があるのでは、と考えたと思います。

見つかった「ノート」

── 「X年後2」に出演した皆さんは、完成した映画は見ていますか。

川口 もちろん。皆さん高齢なので、亡くなった人もいますが……。室戸では試写を含め5回上映会をやりましたが、上映を通じてムードが変わってきたように思います。第五福竜丸以外にも実はおびただしい数の船が放射能の被害に遭ってきたのに、日米両政府が闇に葬ろうとしてきたことについて、自分が口を開くことがもしかしたら役に立つのかもしれない、という思いを持った人は少なくないと思います。

 そして川口さんが被ばく証言を集めている最中、思いがけないことが起きた。室戸市に住む母のアパートで、普段は開かない納戸を整理のために無理やり開けてみると、おびただしい数の古いノートが出てきたのだ。父が遺したものだった。ノートには放射能と自分との直接の関連に触れた記述はないが、航海日誌の中に「体が火のように燃える、肉体に異変があるに相違無い」と不安を記した箇所も見つかっている。

── 大量のノートが見つかるまでの経緯は?

川口 父は私が12歳の時に亡くなりましたが、その際、父の一番下の妹(叔母)がノートを引き取り、自費出版しようと考えました。しかし、実現しないまま12年にその叔母も亡くなり、ノートは行方不明になっていたんです。それが「X年後2」の取材を始めて間もなくの15年7月、一人暮らしの母の住まいを整理していると、小箱の中にノートがびっしり入っているのを見つけました。

── 航海日誌に船員手帳、創作ノートもありましたね。

川口 父は6人兄弟の長男だったので、漁に出て家族を支える立場。でも、本当は本が好きで大学に進みたかったんです。石川啄木が特に好きで、ノートには達筆な字でいくつも自作の短歌が書かれていました。マグロ漁船の漁師は2週間かけて港と漁場を行き来し、それが年に6、7回。室戸に帰ってくるのは1年のうちほんのわずかで、ほぼ母子家庭でした。一緒に釣りに行った思い出など、記憶はわずかしかありません。

「X年後3」を準備

伊東英朗監督(右)と。イギリス取材、ロンドン郊外にて 川口美砂さん提供
伊東英朗監督(右)と。イギリス取材、ロンドン郊外にて 川口美砂さん提供

── お父さんを早くに亡くし、生活も大変だったのでは?

川口 長女でしたから私が母や妹を支えないといけません。春、夏、冬の学校の休みには皿洗いをはじめいろいろアルバイトしました。同級生の父親がスーパーマーケットという当時最新の店を開き、そこでも雇ってくれました。修学旅行も自分で積み立てたお金で行きました。

── 東京に出ることは決めていた?

川口 6歳下の妹が20歳になったら出ると決めていました。漁協の団体職員になり、午後5時に仕事が終わると寺子屋みたいな小さな塾を開き、上京資金をためました。上京は26歳。とても親身になってくださったのが、現代詩人の永瀬清子先生です。室戸にいるころから文通を始め、あの宮沢賢治が大きなチェロを抱えて上京した時の話を聞かせてくれたり、書店のアルバイトを紹介してくれたりしました。

 そして、東京・神田駿河台下でビラ配りのアルバイトをすることになり、当日一緒にやるはずだった友人がドタキャンしたので仕方なく2人分をこなしていたら、偵察に来た広告代理店の人に手際の良さをほめられ、今度はそちらで働くことになり、やがて正社員にしてもらいました。

── お父さんのやりたかったこととオーバーラップします。

川口 そうかもしれません。広告代理店時代はバブルをがむしゃらに走り抜け、92年に自分の広告会社を立ち上げました。思えば無鉄砲な人生でその都度突破してきましたが、この年齢で放射能という、父とも深く関わりがあるテーマに遭遇し、伊東監督のように心から尊敬できるクリエーターのお手伝いができることを幸運だと感じています。

── 映画は「X年後3」を準備中です。

川口 英国取材を主軸に構想されているようです。英国政府がインド洋に浮かぶクリスマス島(オーストラリア領)沖合いで行った核実験で被ばくした退役軍人たちに話を聞いて回りました。彼らは10代で「南の島で高給の仕事がある」と連れ出され、何も知らないまま加害者側になり、そして自分たちも被ばくしてしまった人たちです。伊東監督自身もカメラの前に立ち、自ら被写体となります。

 私は「X年後3」では徹底的に裏方に回り、あらゆる役割をこなし、放射能が残した真実を日本と世界に見てもらう努力をしたいと思います。


 ●プロフィール●

川口美砂(かわぐち・みさ)

 1956年高知県室戸市生まれ。広告代理店アド・エム・リバー代表取締役。隔月誌『ジャズ批評』(ジャズ批評社)の編集者も務める。仕事の傍ら、映画「放射線を浴びたX年後」を撮影した伊東英朗監督の取材パートナーとなり、「X年後2」(2015年)にも出演。「X年後3」の米国公開を目指し、12月25日までクラウドファンディングで資金を募っている。問い合わせはx@x311.info。

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