「白塗りの顔に純白のドレス」伝説の老娼婦「ハマのメリーさん」を演じ続ける理由
俳優の五大路子さんが横浜の老娼婦「ハマのメリーさん」をモデルにした一人芝居「横浜ローザ」を始めて来年で25周年になる。
このほど四半世紀にわたる歩みを『Rosa 横浜ローザ、25年目の手紙』(有隣堂)にまとめ、出版した。
(聞き手=井上志津・ライター)
「演じるたびに自分を見つめ直しています」
「メリーさんの手は氷のように冷たく、“私を忘れないで”と言っていたように感じました」
── 著書『Rosa 横浜ローザ、25年目の手紙』を10月に刊行しました。出版の経緯を教えてください。
五大 一人芝居「横浜ローザ」は2021年で初演から25周年を迎えます。
2年前に「もうすぐ25年だな」と思い、地元横浜市の出版社「有隣堂」に頼みに行きました。
横浜の伝説の老娼婦、メリーさんは有隣堂のある伊勢佐木町によく立っていたそうなので、出版を了承してもらってうれしかったです。
毎年、公演のたびに書いているノートをひっくり返しながら、メリーさんとの出会いや米国ニューヨーク公演、1999年の横浜夢座の誕生などについて書きました。(ワイドインタビュー問答有用)
── メリーさんに初めて会ったのは。
五大 91年5月、私が39歳になる年でした。
「横浜開港記念みなと祭」の日の仮装行列の審査員として座っていた時、歌舞伎役者のような白塗りの顔に純白のドレスを着た女性が、あるビルの前に立っているのを見つけました。
「あの方はどなた?」と隣の席の人に聞いたら、「伝説の老娼婦、ハマのメリーさんですよ」と愉快そうに笑いながら教えてくれたんです。
彼女を見つめていたら、視線が合いました。
「あなた、私をどう思うの。私の生きてきた今までをどう思うの」と聞かれた気がして衝撃を受け、彼女のことを知りたくなって取材を始めました。
私は横浜生まれですが、伊勢佐木町の辺りはあまりなじみがなくて、会ったことがなかったんです。
── 当初からメリーさんの人生を芝居にしようと思ったのですか。
五大 最初はただ知りたいという気持ちだけでした。
メリーさんは女性とは話そうとしなかったので、彼女を知っている人たちに話を聞きました。
「あの大きなバッグには大金が入っているんだって」
「高貴な生まれだそうだよ」
「赤い服を着ていたこともある」
「お客さんとカラオケで歌っていた」……。
いろんなうわさがありましたが、みんな、メリーさんの本当の人生については知りません。
ただ、この街では誰もが彼女を知っていて、横浜の風景の記憶の中にメリーさんがいました。
メリーさんを語ることは横浜を語ることなのだと感じ、この横浜を舞台にしてメリーさんのことをお芝居にしたいと思うようになりました。
街角の白いドレス姿
メリーさんは戦後、横浜の街角に立ち続けた娼婦として知られる。歌舞伎の隈取(くまどり)のような太いアイラインを引き、老いても白いドレス姿で、主に伊勢佐木町や馬車道などに現れた。90年代半ばに病気で横浜を離れた後は中国地方の老人ホームで暮らし、05年に84歳で亡くなったといわれる。メリーさんの人生は多くの人々の想像力を刺激し、五大さんの一人芝居をはじめ、映画や小説などの題材にもなった。
── 脚本は劇作家の杉山義法さんです。
五大 取材をしても、メリーさんの人生や事実についてはほとんど分かりませんでした。
そのうち戦中派で軍国少年だった杉山先生が「俺はメリーさんの後ろにいるたくさんの日本の戦後を生きた女性たちの戦後史を書こうと思う」とおっしゃって、完成したのが「横浜ローザ」です。
── 五大さんは1度だけ、メリーさんとお話ししたことがあるのですね。
五大 脚本ができる前年、「メリーさんをモデルにした芝居を上演させてほしい」とどうしても伝えたくて、友人でシャンソン歌手の永登元次郎さんに仲立ちをお願いしました。
「五大路子さんという人が、メリーさんのことをお芝居にしたいそうですよ」と元次郎さんが言ったら、「ああ、そう」と高い声で私に手を差し伸べて、握手してくれました。
すごく小さくて、ぷかぷかして、氷みたいに冷たい手でした。
その冷たさが私の血液の中にドクッ、ドクッと入り込んできて、「私を忘れないで」と言っている気がしたんです。
それを感じた以上、私は彼女のメッセージを次の人に伝えなければいけないと思いました。
一人芝居「横浜ローザ」は96年初演。横浜の街に立つ娼婦ローザが戦後、進駐軍の高級将校を相手にして羽振りの良かったころを経て、朝鮮戦争やベトナム戦争、日本のバブル経済の波に翻弄(ほんろう)され、居場所を失っていく姿を描く。15年にはニューヨーク(NY)公演も行った。現在は約1時間半の1幕ものとして上演している。
「会いに来る」理由
── NY公演の反応はいかがでしたか。
五大 戦争に負けて娼婦になった女の話ですからブーイングが来るかもしれないと不安でしたが、私のこともメリーさんのことも知らない異国の話でも、徹底的に掘り下げて描けば普遍的な物語として受け入れられるのだと実感しました。
たった2日間の上演でしたが、米紙『ニューヨーク・タイムズ』が写真3枚を使い、大きなスペースで舞台評を掲載してくれました。
── 初演から四半世紀がたちますね。
五大 メリーさんも杉山先生も元次郎さんも亡くなりましたが、「横浜ローザ」は不思議な舞台で、今も毎回、ローザを探し、見つめ直す舞台になっています。
毎年見に来てくださるお客さまは「今年もローザに会いに来ました」っておっしゃるんですよ。
なぜ、「ローザを見に来る」ではなくて「会いに来る」なのか。
それは毎年、その年を生きた、その方のまなざしによって、ローザが違うからなのだと思います。
ローザが「私はいったい誰なのかしらね……」と自分自身に問いかけるセリフがあるんです。
「あなたは今をどう生きているの」と問われているようで、私も毎回、考えさせられます。
── 五大さんが芝居を始めたのはいつですか。
五大 神奈川学園高校で演劇部に入った16歳です。
いつか自分の劇団を持ちたいという夢を持っていました。
しかも、横浜は素晴らしい歴史や文化があるのに、東京に対して地方都市と呼ばれるのがおかしいと思っていたので、横浜から発信したいと。
当時、神奈川県の演劇講座で、東京芸術大学で体育学を教えていらした野口三千三(みちぞう)先生に出会い、「唯一信じられるものは自分の体。自分の中にあふれてくるものを探し続けなさい」と言われたことも根っこになりました。
自分の体で表現できる仕事をしようと女優の道を選びました。
── 桐朋学園大学短期大学部で学び、劇団「早稲田小劇場」に入りました。
五大 早稲田小劇場の演出家、鈴木忠志さんの世界に魅了されたんです。
その後に入った「新国劇」では、付き人、掃除、洗濯、何でもやりました。
おっちょこちょいで、先輩の衣装を手にいっぱい持ったまま舞台に出てしまったこともありました。
朝ドラで人気者に
── 77年放送のNHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」では、昭和の「流行歌手第1号」となった主役の佐藤千夜子を25歳で演じました。一躍人気者になった時はどんな気持ちでしたか。
五大 夢中で楽しく、充実していましたが、数年たったある日、「あれ、私はどこに行っちゃったんだろう」と思いました。
私が自分で「五大路子」を演じ始めてしまったのかもしれません。
16歳の時に描いていた私とは違うな、自分を取り戻したいなと感じた時、私には劇団を作りたいという夢があったことを思い出しました。
まあ、でも簡単に劇団が作れるものでもなく……。ちょうどそのころ結婚して、新国劇を退団しました。
── 子育てをしながら仕事をしていた90年、帝国劇場の舞台が開く2週間前に突然、足が動かなくなりました。
五大 右ひざに激痛が走り、曲がったままになってしまったのです。今も原因は不明です。
舞台もレギュラー番組も全て降板しました。
でも、当たり前のことですが、私がいなくても舞台の幕は上がり、テレビ番組も何事もなく放送されて、「ああ、私は金太郎あめの一つに過ぎないんだ」と思い知らされたのです。
もし治ったら、今度は金太郎あめの一つとしてではなく、私にしかできない表現をしたいと思いました。
闘病は1年ぐらい続きました。
みなと祭でメリーさんを見た日は、ようやくひざが伸びて足の裏が床につくようになり、仕事に復帰したころだったんです。
その時の私は、全てがバンと断ち切られたことで、「私はなぜ生きているの」「私はなぜ女優をやっているの」と疑問を感じていました。
だから、メリーさんは何もしゃべっていないのに、彼女の声が聞こえたように感じたのだと思います。
── タイミングが合ったのですね。その5年後に「横浜ローザ」を初演し、99年には念願の劇団「横浜夢座」を旗揚げしました。
五大 旗揚げのきっかけは偶然でした。
「よこはま市民メセナ協会」の会長さんから「横浜ローザ」の公演を依頼された時、「横浜発の劇団を作るのが夢です」と話したら、「できますよ。夢はかないますよ」と即答されたんです。
私はたちまちその気になって、1年かけて実行委員会を作り、夢がかないました。
この時に一緒だったメンバーは今も仲間です。
横浜夢座は横浜市を拠点に、市民による実行委員会形式で運営。出演者は座長の五大さんが、上演作品によってさまざまな俳優にオファーする。横浜夢座の上演作品は横浜の歴史や場所、人にスポットを当てているのが大きな特徴。五大さんがテーマを発掘・発案し、取材をした上で脚本家に脚本を依頼する。この20年余で14本の作品を生み出している。
実は人情深い街
── 作品のテーマ探しはどのように?
五大 横浜はおしゃれな港町のイメージがあって、それも大きな魅力なのは間違いないんですが、1枚ベールをめくると下町情緒がたっぷりの、人情深い街なんです。
独特の香りの文化があちこちにごった煮で残っているので、掘っても掘ってもテーマには困りません。
── 劇団の運営で大変なことは。
五大 山ほどあります。第1回公演は大赤字になって寝込みました。
舞台制作がスムーズにいかなくて出演者の造反が起き、私が土下座して謝ったこともありました。
自分で資金集めも宣伝もするので、ヘトヘトになりますが、全身全霊で気持ちを伝えれば人は受け取ってくれます。
ここまで人の心に支えられてきました。能天気でプラス思考だから、やってこられたというのもあるかもしれませんね(笑)。
── 今年は新型コロナウイルスの感染拡大で、「横浜ローザ」の公演が中止になりました。
五大 無念でした。でもその代わり、「五大路子・横浜夢座」のチャンネル名で、動画サイト「ユーチューブ」での配信を始めました。
今年11月には横浜国立大の学生とリモートで対話もしました。
NY公演を実現させた苦労話などをしたら、「五大さんはなんでそんなに一生懸命なんですか」ってびっくりされました。
ローザという一人の人間に託した、残酷な時代を生きた女たちの思いにも興味を持ってくれました。
全身全霊で伝えると、反応してくれるんですね。
気の遠くなるような作業かもしれませんが、伝えるのをやめるわけにはいきませんから、これからも自分の中にあふれてくる思いをいろいろな方法で投げ続けていきたいです。
(本誌初出 「横浜ローザ」25年=五大路子・俳優、横浜夢座座長/822 20201222)
●プロフィール●
五大路子(ごだい・みちこ)
1952年、横浜市出身。桐朋学園大学短期大学部(現桐朋学園芸術短期大学)で学び、早稲田小劇場を経て新国劇へ。77年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」でテレビドラマデビュー。99年、「横浜夢座」を旗揚げし、座長に。主な作品にテレビ「独眼竜政宗」「蝉しぐれ」、映画「デスノート」「プライド」、舞台「三銃士」「大菩薩峠」など。2012年横浜文化賞、15年神奈川文化賞、18年東久邇宮文化褒賞受賞。