国際・政治 霞が関クライシス
「竹中平蔵氏と新自由主義」はなぜ力を持っているのか 前川喜平氏が激白する「改革圧力」との闘い
「#竹中平蔵を政治から排除しよう」「#竹中平蔵つまみだせ」
テレビ等で発言するたびに、Twitter上ではこのようなハッシュタグが数万~数十万単位で投稿されるのが、パソナ会長竹中平蔵氏。
菅義偉首相のブレーンの一人であることも周知の事実である。
竹中氏の掲げる「新自由主義」と「構造改革」はかくも国民に不人気だが、実際のところ、霞が関の官僚はどのように思っているのだろうか。
第1次安倍政権時代に「改革圧力」に抵抗したという前川喜平氏に、リアルな霞が関の裏話を語ってもらった。
かつての霞が関はもっと闘っていた
――人事をテコに官邸主導を図る内閣人事局の仕組みがなかった安倍2次政権以前は、各省はいたずらに官邸に追従せず、政策論議ができていたのですか?
前川 第2次政権以前の官邸には、調整役の官僚はいても、政策の絵図を一方的に描いて各省に降ろす、今みたいな「官邸官僚」は、いませんでした。
政策や制度設計は基本的に、各省がそれぞれ、責任とプライドをもって進めていたのです。各省の独立性は高かったのですね。
むろん、時に政権は、看板に掲げたテーマについて、各省に方針を打ち出してきましたが、「司」として、どうしても譲れないと思ったものは、省内で再検討し、押しとどめようとしてきたのです。
折からの圧力が強く、その時は否応なく受け入れざるを得なかった場合でも、「もう、決まってしまったのだから仕方ない」と諦めず、機を見て修正しよう、という姿勢は捨てないでいました。
例えば、教育改革を主要課題に掲げた安倍1次政権は、首相自ら、私的諮問機関の教育再生会議を設置して、「徳育の教科化」を目指しましたが、当時の伊吹文明文科相が「(全体のために個人が犠牲になることを説く)修身科の復活のようなことはすべきではない」と考えて、やり過ごす格好でブレーキをかけたのです。
具体的には、伊吹氏は、教育再生会議が言い出した教科化を文科省に引き取って、中央教育審議会で議論すると道筋を立てた。そのうえで、中教審の会長に、教科化に反対していた劇作家・評論家の山崎正和氏を据えるという芸当をみせた。実際、中教審は見送りを答申し、教科化は立ち消えになりました(※1)。
(※1 安倍2次政権で「道徳の教科化」が実現。安倍氏は今度は、考えの通じた下村博文氏を文科相に充て、官邸に新たに設置した教育再生実行会議も担当させた。下村氏もまた、櫻井よしこ氏を中教審委員に任命。思想的に共鳴するメンバーで態勢を固めて推進した)
――伊吹氏は国会で、再生会議と文科省・中教審との関係を問われて、再生会議の好きにはさせない、という意思を示していたそうですね(※2)。
(※2 2006年10月31日、教育基本法に関する特別委員会で、伊吹氏は民主党議員の質問に対し、「(再生会議で)学校教育、中教審の守備範囲に落ちてくる意見があれば、私どもの方に引き取る」と発言)
前川 今みたいに官邸にひれ伏して、「ご無理ごもっとも」で何でもやってしまうようなことはなかったのですね。司として、政策を吟味する関門になっていた。
とくに伊吹さんは永田町や霞が関で“イブキング”の異名があったくらいで、当時私は大臣官房総務課長として伊吹さんの側に仕えていたのですが、「安倍君は何を考えているのかね」なんて、上から目線で言っていましたよ(笑)。
小泉政権の教育「改悪」……前川氏はどうやって止めたのか
――前川さん自身も、竹中平蔵氏が旗振り役となった小泉政権の新自由主義改革では、“抵抗勢力”になりました。地方分権や国・地方の歳出削減を図った「三位一体の改革」(※3)で、義務教育費の国庫負担金の廃止が俎上にあがったときには、立ちはだかった。
(※3 ①国が自治体へ支出する「国庫支出金(補助金・負担金)」の削減 ②自治体の財源不足を補うために国が配分する「地方交付税」の見直し ③国から地方への税源移譲、を一体的に進める改革)
前川 あの頃は、小泉構造改革の嵐が政治行政に広く吹いて、教育行政も無風ではいられませんでした。
その一つが、2002年から始まった「三位一体の改革」における義務教育費の国庫負担金(※4)の廃止論議です。
(※4 都道府県・政令指定都市が負担している公立小中学校・特別支援学校の教職員の給与について、その半分(06年度以降は3分の1)を国が負担する制度。三位一体の改革以前の02年度予算で約3兆円)
少し背景説明をしますと、「三位一体」は、小泉改革の一環として、当時総務相の片山虎之助氏が言い出したものです。
総務省は地方分権を旗印にしながら、最終的には、所管する地方交付税交付金の削減を狙っていたのです。
交付税の財布である「地方交付税特別会計」が破たん状態でしたから。交付税削減こそ、「三位一体」の真の目的でした。
そこで総務省はまず、「国庫支出金(負担金・補助金)」の削減と「税源移譲」に着手した。
国の支出金を削減する代わりに、国の税源を移譲して地方税収を増やす、つまり、地方の自主財源が増えて、地方分権になるからいいだろう、というわけです。
そして、地方税収が増えたのだからと、返す刀で“本丸”の交付税の削減にかかろうと企んでいたのですね。税源移譲ができれば、それだけ交付金が削減できる算段です。
彼らはこうした策を、竹中氏が仕切る経済財政諮問会議を舞台に進めようとしていた。
――何かこう……、交付税を削減するために、国庫支出金が犠牲になるような話ですね。
前川 ええ。そしてこの時、総務省が目を付けたのが、義務教育費の国庫負担金です。
折も折、私は学校教育の財政を担当する、初等中等教育局の財務課長でした。
全国津々浦々の義務教育の質を守る司として、ここは譲れなかった。
なぜなら、国が都道府県に支出するこのお金があるからこそ、財源の乏しい自治体でも、一定の教育環境を守ることができていたからです。
負担金を、交付税削減の人身御供に差し出すわけにはいかなかったのです。
――闘いの日々になった。
前川 総務省は時を追うにつれ、圧力を強めてきました。
まず中学校の教職員分(の負担金)を寄こせ、次に小学校分だ、と――。交付税の削減を見据え、3兆円の税源移譲を狙ってきた。
ところが、シミュレーションしてみると、地方税に振り替えるという3兆円分の多くは、税源の豊かな(課税対象の多い)東京都に行く形になってしまい、他の道府県の税収はさして増えない。
つまり、大半の自治体では、移譲により得られる税収額が、これまで得ていた負担金額を下回ることになる。
総務省は地方交付税で補填するというが、彼らは、ゆくゆくは交付税の削減をもくろんでいるのだから、まったくアテにならない話です。
だから、義務教育費国庫負担金が廃止されれば、税収の乏しい自治体は従来の教育水準が守れなくなるだろうし、自治体間の格差が出てくることも明らかでした。
また一方では、税源移譲をしたくない財務省が、負担金の「交付金化」というクセ球を投げてきた。
地方の自由度を高めるための交付金化だと説明していましたが、狙いは予算の削減でした。
――前門の総務省、後門の財務省ですね。
前川 だから私はもう、負担金死守のために関係課の課長とタッグを組んで、総務・財務両省や諮問会議を相手にドンパチの勢いで議論しました。
直属の上司の局長は、青年将校が暴れていると、まあ、黙認しているようでした(笑)。
小泉政権は官邸主導と言われましたが、今の安倍・菅政権とは違って、丁々発止の議論ができたのですね。ここは決定的な違いです。
――議論がいよいよ胸突き八丁にさしかかると、前川さんはブログを立ち上げて、負担金の意義や改革の危険性を訴えました。「子どもたちのため、ここで諦めるわけにはいかない。だからこうして皆さんに説明しているのだ」と。負担金が廃止された場合の、近未来ディストピア短編小説を書いた回まである。
前川 改革論議で我々は一貫して負担金の必要性を主張してきましたが、総務省や財務省に比べて、発言の機会が少なかったのです。諮問会議でも発言の機会がなかなかない。
そのうえ、メディアでは「省益のために負担金を守ろうとしている」なんて、ステレオタイプの批判が繰り返されていた。
ならば、負担金の意義を直接世論に訴えようと試みたわけです。
何とか理解してもらいたいと、シミュレーション小説までね……。
月刊誌に実名で「三位一体の改革」を批判する論文を書いたりもしました。とにかく、あの手この手で抵抗しました。
「新自由主義が世の中を良くする」という風潮があった
――激しい折衝の末、「三位一体」が実質的に決着したのは05年秋。国庫負担金は、国の負担率が3分の1へ縮小されたものの、存続させることができました。
前川 私はそれまでに、初等中等教育局の筆頭課である初等中等教育企画課の課長になっていて、最後、この問題の取りまとめに当たりました。
当時自民党の政策責任者だった与謝野馨政調会長の力を借りて話を収めました。
私は、与謝野氏の文科相時代に秘書官を務めていたこともあって、パイプがありました。
改革論議の最中には、自ら負担金制度を見直して、自治体が、あてがわれた総額の枠内で裁量的にお金を使えるよう、地方分権に沿う改革もしました。
このように、省内や各省間で徹底的に論議して、制度を維持したり、設計し直したりするのが本来の官僚の仕事であって、官僚の生きがいです。
負担金を巡る議論は、防衛戦ではありましたが、思いっきり議論ができたという意味では、実は意外と楽しくもあったのです。
――官僚の本質が伝わってくる示唆深いお話です。一方、いったんは受け入れざるを得なくて、他日に修正を期した政策も?
前川 振り返れば、格好いいことばかりでありません。
とりわけ、小泉政権以降、「新自由主義が世の中を良くする」という思想が政府内外で強く、司から見ると、明らかに質が悪いと思われる規制緩和まで、時に強いられてきました。
――具体的には?
前川 最たるものが、03年から構造改革特区で認められた「株式会社立学校」です。
従来の文科行政は、学校の設置については、国・自治体と、公益法人である学校法人にしか認めていませんでした。
学校教育は公益性の高い仕事ゆえ、営利追求の民間企業にはなじまない、という考えからです。
なのに、規制緩和論者たちが、「教育は『官製市場』でケシカラン。民間参入を促して、競争原理によって教育の質を高めよう」と迫り、「株式会社立学校」ができるようになってしまったのですね。
しかし、結論からいうと、この規制緩和は、やはり大失敗だったと言わざるを得ない。
現在、「株式会社立学校」の大半を占めるのは広域通信制高校で20校ほどありますが、これが非常に質が悪いのです。
――どういうことですか?
前川 はい。一方に、本当は勉強なんてしたくないけど高校卒業資格は欲しいという、生徒側の需要が残念ながら存在していました。
そしてもう一方に、それならば、授業料さえ払えば、ロクに勉強しなくても卒業できてしまう学校をつくって利益を上げようと企む人が出てきてしまった。
立派な教育を提供する気などもとよりなくて、学校教育に金儲けのチャンスを見いだしているだけの人たちです。
市場に任せてみたら、このような堕落した「需要と供給の一致」が起こってしまったのです。
特に悪質だったのは、15~16年に発覚したウイッツ青山学園高校の事例です。
テーマパークへの旅行をスクーリングとしたり、名前だけ入学させて、国からの就学支援金を不正に受給したりしていました。
教育に「市場原理」を導入したのは誰だったのか
――規制緩和したら、新自由主義者のもくろみに反して、悪質なものが生まれてしまった。
前川 そうです。教育の質を守るためには、やはり市場に委ねるだけではだめで、何らかの質の保証システム、つまり規制が必要だと、特区の実験は改めて示したのですね。
実際、政府の特区・評価委員会が12年に「株式会社立学校」の審査をしましたが、その時すでに「株式会社立学校」の質の悪さを把握していた我々文科省は、「ここで方向転換をしよう」と図ったのです。
学校の実態を示す資料をそろえて、廃止すべきだと主張した。
当時の平野博文文科相も「こんなのは、おかしい」と後押ししてくれました。委員会の評価を「廃止」に持っていく寸前だったのです。
ところがその時、制度を存続させようと、平野氏に接触してきた人がいた。
そして、こんなふうに、ささやいた。
「最終的には廃止に持っていきますが、いきなり廃止にするとハレーションが起きるかもしれないから、今回は是正措置にとどめた方がいい」
――声の主は、いったい誰ですか?
あの和泉洋人氏ですよ。
彼はその折、内閣官房の地域活性化統合事務局長として特区制度の実質的な元締めのような立場にいて、さらに平野氏と昵懇の間柄でした。
そこで、特区を推進したい和泉氏は平野氏を説き伏せたのです。廃止の空手形を切ったようなものです。
――平野氏は説得されてしまった?
前川 ええ、平野氏は「それなら段階を踏もう」とトーンダウンしてしまった。
結局、まずは是正措置でいくという評価に落ち着いてしまいました。残念なことに、和泉氏にひっくり返されたのです。
ただ、その後、是正の指導をしたのに、青山学園の問題が出てきたわけです。
本来ならば、「株式会社立学校」はもう廃止に持っていかないといけない。
なのに、和泉氏の約束は果たされず、私自身も退官を迎えてしまいました。
学校の質の維持を預かってきた者として、これは心残りです。心ある後輩に後を託したい思いです。(構成・山家圭)
▽前川喜平(まえかわ・きへい)
1955年生まれ。東京大学法学部卒業。79年文部省(当時)入省。文部科学省官房長、初等中等教育局長、文部科学審議官などを経て、2016年文部科学事務次官。17年退官。著書に『面従腹背』(毎日新聞出版)、『この国の「公共」はどこへゆく』(共著、花伝社)など。
▽山家圭(やまが・けい)
1975年生まれ。フリー編集者。社会保障専門誌の編集記者(厚生労働省担当)を経てフリーに。