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週刊エコノミスト Online ワイドインタビュー問答有用

「破壊と創造」に挑む=坂田明・アルトサックス奏者/829

「ハナモゲラに意味を追求してはいけない。意味のある体制に対して、意味のないことをやってみせるアンチ」 撮影=蘆田 剛
「ハナモゲラに意味を追求してはいけない。意味のある体制に対して、意味のないことをやってみせるアンチ」 撮影=蘆田 剛

 アルトサックスを吹き続けて半世紀以上。「フリージャズ」というジャンルにも当てはまらない、力強く自由奔放な演奏で聴く人の心を揺さぶる坂田明さん。75歳の今なお、新たな境地に挑み続ける。

(聞き手=大宮知信・ジャーナリスト)

「目標はない。今考えているのは、生きるということ」

「ミジンコの命が透けて見え、コルトレーンとつながった。すごい話でしょ」

── 新型コロナウイルス禍で音楽界は壊滅的な打撃を受け、ライブハウスは営業時間を短縮したり、閉店に追い込まれたりしています。

坂田 我々の活動拠点でもあるライブハウスは客が来なくて家賃収入がなければアウトですからね。コンサートは中止、イベントもできない。上から下まで最低の状況です。昨年に予定していた欧州ツアーは全部ダメになってしまいました。昨年の初めごろ、今年に延期しようかと検討はしたんですが、今年も難しいね。落ち着くのに3年はかかると思いますよ。(ワイドインタビュー問答有用)

── それまで年間100回近くのライブをこなしていたそうですが。

坂田 そうした仕事がなくなったので、1人でやるとかオンラインで配信するとか、いろんなことをやっています。昨年12月には、東京・吉祥寺の音楽スタジオが企画したライブの有料配信にトリオで出演しましたが、若い人と一緒にやると刺激を受けますね。ピアノ(武田理沙さん)が32歳でドラム(林頼我さん)が22歳ですよ。若い人のやっていること、新しいことはかっこいい。

── 年齢を重ねたミュージシャンにも円熟味があるのでは。

坂田 僕は別に円熟味をつけてどうこうするようなミュージシャンではない。円熟味なんて放っておいたって出ますから。簡単な話、みんなが知っている曲を吹けばいいんです。だけど、僕は古い曲はほとんど聴かない。もちろん円熟味のあるものを聴けばぐっとくるものはあるけれど、やっぱり若者から得るものがいちばん大きいですよ。若い人と一緒に何か新しいことをやりたいですね。

 取材当日。カメラマンの求めに応じて坂田さんがアルトサックスを手に演奏を始めると、太く伸びのある音が部屋中に響き渡る。1972年には山下洋輔トリオのメンバーとなり、既成の音楽概念を突き崩すフリージャズで世の中に衝撃を与えた。その後も、「坂田明trio」など自らのバンドを率いながら、洋の東西を問わず幅広いミュージシャンとセッション。75歳の今なお新たな表現の追求を続ける。

客が寺山修司1人

── フリージャズとは、どんな演奏スタイルのことですか。

坂田 それまで主流だったビバップというジャズの演奏スタイルは、例えば小節の数や和音の進行(コード進行)が決まっていて、それにのっとってソロをやる。それに対してフリージャズは、演奏が始まったら「勝手にやれよ」「ハイ、勝手にやります」という中で、みんなで聴き合っていろんなものが反応して、次のステップにどんどん音が変わっていって一つの曲ができていく。

 例えば、初めて会った人と話をするとき原稿はないでしょう。今、僕がこのインタビューでしゃべってることにも原稿はありません。それがフリージャズです。それが面白いか面白くないかということだけで、面白くないのは残らない。面白い人だけが残っていくということなんです。ある仕組みを壊すことで新しいものが生まれる。破壊と創造ということです。

── 69年に広島から上京後、昼間は仕事をして夜は自分でガリ版刷りのチラシを作り、あちこちのライブハウスで演奏活動を始めました。客が1人しかいなかったこともあるそうですね。

坂田 そのお客さんが劇作家の寺山修司さんだった。ところが、店の人がさっき「寺山さんが怒って帰りました」って言うんです。「何で」って聞いたら、「こんないい演奏をしてんのに、なんで客がいないんだ」っていうわけです。あ、そうか寺山さん、気に入ってくれたのか、俺も脈があるかな、と思いましたね。僕はそういう優れた人たちに、インパクトが伝わるようなことをやりたかったんです。

── その後、72年に山下洋輔トリオのメンバーに加わるわけですが、きっかけは?

坂田 若いから力まかせにがんがんやっているうちに、あるスタイルみたいなものができたんでしょうね。それが、山下さんが僕を使ってくれるきっかけになった。どこの馬の骨だかわかんない下手くそなやつが、いきなり一流バンドの世界へポンと入っちゃった。そこには(漫画家の)赤塚不二夫さんとか(小説家の)筒井康隆さんとか(演出家の)麿赤児さんとか、すごい人たちが聴きに来る。ビックリ仰天ですよ。

── 坂田さんが演奏中にデタラメなことを言い始めたことがきっかけで、タモリさんの持ち芸でもある意味不明の言葉「ハナモゲラ語」が生まれたと言われます。

坂田 それは違う。他の人たちが前からやっていたのを、命名したのが僕なんです。タモリはああいうことが天才的にうまかった。ハナモゲラに意味を追求してはいけません。ナンセンスというのは、意味のある体制に対して、意味のないことをやってみせるアンチ。赤塚先生のギャグ漫画も、暴力的な破壊力があるけれど、決して人を傷つけないからね。大事なことは、自分の発する音や声に魂が乗っているかどうかなんです。

 実家は運送業で、音楽とは無縁の環境だった坂田さん。中学生の時、ラジオから流れてきたモダンジャズに心が動いた。「ちょっと大人の世界が見えた感じがして、これはすごいな、と」。ボリス・ヴィアン原作のフランス映画「墓にツバをかけろ」のテーマ音楽だった。高校ではブラスバンド部に入り、クラリネットを手にする。63年に広島大学水畜産学部水産学科に入学後も、ジャズ同好会に入って音楽漬けの生活を送った。

「3年」に懸ける

坂田さんがサックスを握ると、周囲がライブハウスに一変する 撮影=蘆田 剛
坂田さんがサックスを握ると、周囲がライブハウスに一変する 撮影=蘆田 剛

── なぜ水産学科に?

坂田 自分の能力と家の経済状態を考えたら、国立大学しか選択肢はなかった。水産学科だったら船にも乗れると思ってね。漁船の船乗りになりたかったんですよ。けれど、ジャズばかりやってて勉強しなかったもんだから、2年留年して卒業まで6年かかりました。音大でアカデミックな音楽教育を受けていたら、こういう人間にはなってなかったでしょうね(笑)。

── プロを目指したきっかけは?

坂田 留年している間に、(米ジャズサックス奏者の)ジョン・コルトレーンが66年 、来日して広島に来たんです。21歳の時でした。もちろん広島公会堂へ見に行きましたよ。やっぱり人間は真面目にやんなきゃダメだなと思ってね。真面目にやるとものすごいことになるんだなあと。その生きた標本を見ちゃったんです。サックスを吹けば、こういう道があるんだと。

── 親の理解は得られた?

坂田 東京に行くに当たって親族会議があった。3年でダメだったら、帰ってこいと。僕はサックスが下手だったし何事も真面目にやってなかったもんだから、どうしようといろいろ悩みましてね。どうやったらコルトレーンみたいな生き方ができるんだと、そこら中の本を読みまくった。コルトレーンだけじゃなく、(ビバップの先駆者)チャーリー・パーカーとか(フリージャズの先駆者)オーネット・コールマンとかもね。

── それでも、プロへの道は険しい。どうやって自分のスタイルを作ったのですか。

坂田 僕はナベサダ(サックス奏者の渡辺貞夫)さんがやっていたジャズの通信教育を受けていましたが、紙の上ではジャズを勉強していても、聴いている音楽と勉強がなかなかつながらない。そのうち、「ナベサダさんから教えてもらうことは、30年やっても間に合わない」と気が付き、マネをしていてはダメだ、俺はナベサダさんと同じことはやらない、と決めたんです。

 チャーリー・パーカーが若いサックス奏者に「できるだけ息をたくさん吸って指を速く動かす」と掛けた言葉があり、僕はその言葉を実践することにしました。オーネット・コールマンの本には「どんなことでも3年やれば世の中に認められる場合がある」とあり、それに懸けたわけです。それしかナベサダさんに肩を並べる道はない、と。ナベサダさんにはその後もいろんな助言をいただいて、本当に励みになりました。

脳出血からリハビリ

 坂田さんはミジンコ研究家としても知られる。体長数ミリの甲殻類。13年にはミジンコの生態や飼い方、観察法なども盛り込んだ『私説 ミジンコ大全』(晶文社)も著した。ミジンコを飼うきっかけは約40年前、現在ドラマーとして活躍する長男学さんが小学生の時、金魚すくいで金魚を取ってきたこと。金魚に生きたエサを食べさせようと、近所の用水路でミジンコをすくい、学生時代も思い出しながら育て始めた。

── ミジンコに夢中になったわけは?

坂田 学生時代に研究室へ持ち帰って見ていたミジンコは死んでしまったものばかり。けれど、クマさん(彫刻家の篠原勝之さん)がくれた顕微鏡で初めて生きたミジンコを見たら、命が透けて見えたんです。僕はコルトレーンに出会った時から、人間の命とか魂は何だろうとずっと考えていた。その命が見えたという衝撃がありました。コルトレーンとミジンコがつながったんです。すごい話でしょ。

 ミジンコ研究は亜流ですが、世界中の命が全部つながっているんだなということが分かりました。そこに上下関係はありません。お互いに助け合って生きている。食物連鎖は命をつなぐシステムなんです。僕のミジンコは研究のためじゃなく、命とは何なのかを確かめるため。今はもう、ミジンコが生きていてくれればいい。そのために観察し、毎日一生懸命世話しています。

── 脂の乗り切っていた57歳の時、脳出血に倒れました。

坂田 僕の演奏の仕方を見れば分かりますが、あんな演奏をしていたら脳の血管がいつかは切れるんじゃないかと、家族もみんな言っていましたからね。僕は切れるわけないと思っていたんですが、やっぱり切れた。ま、それだけのことなんです。ただ、問題はそこから。左の脳がやられちゃったので、言語障害が残り、サックスも前のようには吹けなくなってしまいました。

── どうやってリハビリに取り組んだのですか。

坂田 運よく素晴らしいトレーナーが付いてくれ、一生懸命協力してくれました。今でも毎日、マットとゴムチューブを使って体幹を鍛える運動をしているので、サックスを吹けるようになりました。演奏旅行は大きな荷物を持って動くので体力勝負。自分の楽器やショルダーバッグを持って旅ができなくなったらおしまいです。それができるように日々積み重ねていくしかありません。

── ジャズ界の“大御所”と呼ばれてもおかしくない立場です。

坂田 いやいや、そうじゃない。基本的には若くてとがっている若い連中をヨイショする立場です。“先生”なんて言われると、人間はろくなものにならない。まだまだうまくなりたいし、10分でも15分でも毎日必ず練習します。練習をしていると、楽器を吹いているという“吹奏感”を得られ、それが今の自分の状態を知る目安になる。自分と楽器の一体感、そしてそこから出てくる音の気持ちよさ。それがないと面白くないじゃない。

── これからの目標は?

坂田 それが、実はないんです。今考えているのは、生きるということ。どうやって生きるんだと毎日考えている。今日、生きられたように明日も生きる。それから魚でもミジンコでも、生きているものたちはみんな幸せになってもらいたい。ナベサダさんは僕より一回り上(88歳)ですが、現役で頑張っておられる。僕も80歳、90歳になっても吹き続けられるような気がします。


 ●プロフィール●

坂田明(さかた・あきら)

 1945年2月、広島県呉市生まれ。69年広島大学水畜産学部水産学科卒業後、72年に山下洋輔トリオのメンバーに参加。以来、サックスプレイヤーとしてジャズの最前線に立ち続ける。57歳の時に脳出血で倒れたが、体幹を鍛えるリハビリで復活。現在は「坂田明trio」「坂田明&ちかもらち」を中心に、民謡、津軽三味線などさまざまなジャンルの音楽家ともセッションを展開。ミジンコ研究家としても知られる。

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