「富の独占」嫌い三菱の岩崎と大論争=中園敦二
<いま学ぶ!渋沢資本主義>
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。スポットライトがあたったのは過去30年で2度あった。1990年代初めのバブル崩壊と2008年のリーマン・ショック後だ。不況に陥り、企業倫理が問われたときに渋沢が振り返られる。(渋沢資本主義)
渋沢は幼少から論語に触れ、暗記だけではなく、なぜそうなるのかを考えるように教わった。仁義道徳に基づいた厳格な父親の後ろ姿を見て13歳ごろから家業を手伝いながら、商売の基礎を学んだ。
攘夷(じょうい)思想に傾倒して外国人居留地を焼き打ちする計画を練ったが、一転して一橋慶喜に仕えた。人生の転機となったのが、パリ万博への幕府使節団に加わったことだ。西洋文明の豊かさを肌で感じ、それを支える銀行などの民間企業の存在や社会福祉の状況を知った。明治維新後は新政府に請われて出仕、1873年に実業界へ。退官した年に第一国立銀行を開業。金融基盤の整備が経済の発展につながると考えた。
渋沢は91年の生涯で約500社もの企業の設立や経営にかかわり、近代日本の産業インフラを築いた。実業家としての渋沢は、ゆるぎない哲学を持っていた。
「国の富をなす根源は何かといえば、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、その富は完全に永続することができない」
渋沢の講演内容を収めた「論語と算盤(そろばん)」(守屋淳訳著『現代語訳論語と算盤』筑摩書房刊)の言葉だ。
資本家による事業や富の独占を嫌った渋沢は、出資者を広く募って事業を成功させ利益還元を目指す「合本(がっぽん)主義」を唱えた。
そんな渋沢と比較されるのが、同時代の実業家、岩崎弥太郎だ。岩崎は海運業などで独占的地位を築いて「三菱財閥」を創設した。
合本主義の渋沢と独占主義の岩崎は会社のあり方をめぐり、しばしば激しく対立した。1878年、渋沢は岩崎に向島の料亭に招かれた。岩崎は屋形船に渋沢を誘い、「2人でやれば日本の実業のことは何事ごとでもやれる」と申し入れたが、渋沢はこれを断り、岩崎と会社経営体制について大論争を繰り広げたという。「公益」を追求し「利益」を生み出すのが渋沢の考える資本主義。財界の2大巨頭の会談は物別れに終わった。
渋沢史料館の井上潤館長は「渋沢は『公益』を貫いたからこそ柔軟な行動がとれ、新時代を切りひらくことができた。一筋の光を差し伸べてくれるリーダーシップが求められている時、渋沢の姿と重なってくるのではないか」と話す。
渋沢の著書『青淵(せいえん)百話』(井上潤著『渋沢栄一伝』ミネルヴァ書房刊より)で、現代へのメッセージのような言葉がある。
「今日の時代はただ従来の事業を謹直に継承してゆけばよいという場合ではない。日本の現状は守成の時代ではなく、いまだ創設の時代である」
(中園敦二・編集部)