バブル期でも融資競争に同調しなかった三菱銀行の若井恒雄頭取が陥ったリスク商品への挽回策が東銀との合併だった
旧三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の最後の頭取を務めた若井恒雄(わかい・つねお)氏が2月28日、94歳で亡くなられた。東京銀行との合併を主導し「メガバンクの礎を築いた頭取」として名を残したが、若井の持ち味は別のところにある。バブル全盛のころ、浮かれまくる金融界に同調せず、節度を大事にする「三菱らしい経営」にこだわった正統派バンカーだった。銀行と三菱グループの「良き時代」に育ち、無軌道な融資競争を潔しとせず、結果として業界内の収益順位を落とした。そのバネが銀行大再編の引き金となる合併だった。
大蔵・日銀にも一目置かれた理論派
前任者で名頭取とされた伊夫伎一雄(いぶき・かずお)が太陽なら、若井は月だった。
人情味ある戦略家だった伊夫伎を陰で支える実務責任者。それが若井の役回りだった。
経営中枢である企画畑を歩み、思慮深い理論派で実務にも長け、三菱グループだけでなく、大蔵省・日銀など外の世界でも一目置かれる存在だった。
住銀が始めたバブル融資競争
伊夫伎が頭取になった1986年、番頭役の副頭取になった。
この年住友銀行が平和相互銀行を買収、日銀の低金利政策も重なり銀行はすさまじい貸し出し競争に走った。首都圏に攻め入る住友銀行に、都のメーンバンク富士銀行が立ち向かうといった異様な空気の中で銀行のバブル融資が始まった。
自殺する高齢者も出たリスク商品
三菱は伊夫伎・若井が「銀行らしい振る舞いを」と諫め、逸る現場を抑えた。金融自由化の掛け声とともに銀行は収益競争へとなだれ込み、住友がナンバーワンに躍り出る。
三菱は大手6行で最下位が見え、「このままでは伊夫伎頭取の顔に泥を塗ることになる」と役員会に危機感が広がる。
後に頭取になる営業本部長・三木繁光取締役が目をつけたのが変額保険だった。規制緩和で誕生した新商品、形は生命保険で中身は株式投信というハイリスク商品だった。
三菱グループの明治生命と連携し、得意先の資産家に保険を売りまくり、代金を融資した。バブルが崩壊すると変額保険の価値は急落、融資の返済ができない被害者が続出。担保の家を失ったり、自殺して保険金で返済する高齢者がでるなど社会問題になった。
三菱の看板に傷をつけた変額保険
若井が頭取になると、貸し手責任を問う金融被害者が損害賠償訴訟を相次いで起こした。慎重な舵取りをつづけたはずの若井にとって変額保険は誤算だった。
伊夫伎を慮って手を染めたとはいえ、三菱の看板に傷をつけたことは、若井にとって痛恨の極みだったろう。その挽回が東京銀行の合併でもあった。「銀行の歴史は合併の歴史だ」と常々語り、東京銀行を視野に入れていた伊夫伎の夢を実現したことが頭取時代の精華だった。
護送船団行政の終わり
若井が三菱銀行の経営を担った80年代半ばからの10年は、銀行の転換期だった。金融の自由化・国際化が叫ばれ、大蔵省が箸の上げ下げまで指導するような「護送船団行政」が終わった。
住友銀行では磯田一郎会長の元で巽外夫や西川善文が頭角を現した。安全第一だった銀行は、一転してリスクを取る経営へと走り、「非常識な融資」が多発し、後に不良債権となって銀行経営を苦しめた。その結果、規模を、効率を求め合併先を探す金融大再編に突入する。
合併相手の東銀に敬意を示した頭取人事
合併した時、東京銀行頭取の高垣佑は、財閥解体で消えた旧三菱商事の高垣勝次郎の子息。若井は会長に退き、高垣佑を東京三菱銀行の頭取に据え、東銀に敬意を示した。
(山田厚史・ジャーナリスト、デモクラシータイムズ同人)