経済・企業 巽外夫氏死去・元住友銀行頭取
住友銀行を震撼させたイトマン事件で天皇「磯田会長」を退任に追い込んだ地味な頭取の67歳の決断
住友銀行(現・三井住友銀行)で頭取を務めた巽外夫氏が1月31日、老衰で死去した。大掛かりな不正経理が問題となった「イトマン事件」の処理を頭取として指揮した。マツダの再建にも尽力した。
反社会勢力による支配との決別
「反社会的な勢力がうちの銀行を支配下に置こうとしたことが、今度の事件の本質です。影響力のある男を頭取にして、支配しようと考えていたのではないか」
不正経理が問題となった「イトマン事件」が一区切りついた1991年7月、頭取だった巽外夫さんは、事件を振り返ってこう語った。「暴力団による支配」とは穏やかではない。「書いていいか」と念を押すと、「私の名前は勘弁してください」。銀行を去ったとは言え、当事者はまだ周辺にいた。巽さんの念頭にあったのはある元副頭取だった。
1990年10月、仕手集団「光進」の経済犯罪に住友銀行青葉台支店(横浜市)が加担していたことが発覚した。
これを受け磯田会長が突如、辞任を表明。巽は面食らった。引責辞任なら、会長でなくまず頭取だろう。
意表を突いた辞任表明は「おまえも辞めろ」と言っているに等しい。後任の頭取を決めるのは「住友銀行の天皇」磯田である。
“磯田子飼いの部下”が暗躍したイトマン事件
背景には「イトマンを巡る内紛」があった。
暴走するイトマンの河村良雄会長は住銀時代、磯田子飼いの部下だった。河村が不動産担当としてイトマンに呼びよせた伊藤寿永光常務は、反社会的勢力と関係する地上げ屋。磯田が溺愛する長女を取り込み、住銀中枢に食い込んでいた。
イトマン処理は住銀の懸案だが、磯田の権威が壁となっていた。銀行内の改革派からは、磯田を諫めることもできない頭取に苛立ちさえ出ていた。
マツダ再建を果たした剛腕専務
巽さんに初めて会ったのは1980年、東洋工業(現マツダ)担当の専務の頃だった。
私は自動車担当記者で、マツダとフォードとの関係をメーンバンクである住銀から取材しようと磯田頭取を訪ねた。「巽専務に聞けばいい。今の社長は工場長みたいなもの。巽くんが実際の社長だ」と紹介してくれた。
言葉通り、巽さんは東洋工業の全権を握っていた。
フォードから出資を引き出し、石油ショックで沈んでいたマツダの再建を果たした。磯田―巽ラインの采配で復活したマツダの快進撃は住銀の収益に貢献していた。
“言うことを聞く頭取”を後釜に添えた
東京の常宿は芝のプリンスホテルで、夜回り取材はここのロビーだった。「地味で物静か、国際的な視野を持つ実務派」という雰囲気で、権力闘争が盛んな住銀で頭取を目指す人という印象は薄かった。
それが1987年、頭取に抜擢された。小松康雄頭取が2期4年を待たずに辞めたのは驚きだったが、後任が巽さんだったことは銀行内外で驚きをもって受け止められた。
磯田天皇が、意に沿わぬ小松頭取を外し、言うことを聞く巽を後釜に据えた人事と、言われた。
自分にとって「かわいい」が評価基準
磯田会長は、部下を評価する時「かわいい」という言葉をよくつかった。
物差しは3つ。仕事が「できるか、できないか」、性格が「明るいか、暗いか」、自分にとって「かわいいか、かわいくないか」
例えば「小松(頭取)はできる奴だが、暗い。私もどちらかと言えば暗い。暗い頭取が2代続いてしまってよかったのか」。夜回りで自宅を訪れると、そんな話をする。
小松頭取を「かわいくない」と暗に語っていた。
小松路線が気に入らないようだった。磯田がイトマンの河村社長を通じて進める平和相互銀行との合併に懐疑的で、国内より海外業務に力を入れていた。
そこで実務派で忠実な巽にお鉢が回ってきた。
「その筋とつながる」副頭取
「できる・明るい」で、頭取候補とされた玉井英二も「かわいくない」へと分類されていった。直言が嫌われた。
「できる・明るい・かわいい」と評されていたのが西貞三郎副頭取だった。支店長のころの部下で、磯田が引き立てた。イトマン処理でも磯田を支え、青葉台支店で事件化した光進の小谷氏とも繋がっていた。
事件の罪は支店長が全て被ったが、背後にいたのは西副頭取で「その筋とのつながり」が銀行内で噂されていた。
巽は、磯田が西に無防備であることを心配していた。
「磯田会長に引導」で決起した西川常務
イトマン処理は住銀上層部の亀裂を鮮明にした。
辞任を表明しながら人事権を握る会長に忖度する守旧派、「磯田会長に引導を」と動く玉井副頭取―西川善文常務ら改革派。巽は改革派に与しながらも「恩人磯田」に逆らえない。
そんななかで90年10月13日土曜、部長会が決起した。
西川の呼びかけで東京・信濃町の住友銀行会館に本部の部長たちが集まり、4時間かけてそれぞれが思いを語った。「磯田会長に退任を求める」と決議し、代表が大阪に向かい「連判状」を巽頭取に手渡した。
「恩人磯田」解任を決めた67歳の決断
「僕はその期待に添わなければならないね」と巽は西川に告げたという。巽が動き、3日後の16日、経営会議で磯田は会長から退いた。
同時に西副頭取の解任が決まった。西副頭取の排除は「住銀を守る」と決めた巽にとって欠かせない仕事だった。
67歳の10月13日は人生の転機となった。
頭取になっても「磯田の忠実な部下」だったが、呪縛は解け、住友銀行のトップに生まれ変わった。
地味な頭取を後任に選んだ思い
磯田が進めた「向こう傷は問わない」とする拡大路線の軌道修正に全力を注ぎ、93年に頭取の座を森川敏雄に譲った。森川も国際畑が長い実務派。巽と同様、下馬評に上がらなかった地味な頭取だった。「日頃は物静かでも危機に直面すると肝力を発揮する人がいる」と巽は森川を評したが、自らを語っているようにも思えた。
動乱期を引き継いだ西川氏も鬼籍に
巽が会長を退いた97年、西川善文が頭取に就任。その直後、山一証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻が起き、金融危機が火を噴いた。住銀はさくら銀行と合併し生き残りを図るなど銀行は再び動乱期に入る。
巽・森川時代は、バブルにまみれた住銀が不良債権の処理に追われた時期でもあった。住銀が得意とした違法すれすれの収益第一主義が反社会勢力の介在を許した反省から、穏やかな経営者が組織の傷を癒す「調整期」だった。磯田が築いた「収益ナンバー1銀行」の残滓を片付け西川に託す。それが住友銀行史での巽の役回りとなった。
磯田の流れをくむ果敢な経営に挑んだ西川も、一時代を築きながら、最後は不良債権処理で引責辞任した。巽はどんな思いで見守っていただろう。
(山田厚史・ジャーナリスト、デモクラシータイムズ同人)