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経済・企業

半沢直樹も直面した合併の闇に翻弄された「ラストバンカー」西川善文氏の孤独

日本郵政株式会社の初代社長に就任した西川善文氏(2005年11月11日総務省で野田武写す)
日本郵政株式会社の初代社長に就任した西川善文氏(2005年11月11日総務省で野田武写す)

 三井住友銀行頭取を務め日本郵政の社長にもなった西川善文氏(9月11日死去)は、昭和という「銀行の良き時代」に頭角を現し、平成と共に始まった金融動乱を駆け抜けた「時代の体現者」だった。反社会的勢力の経営介入、隠された不良債権、トップ追い落とし、合併と内紛。ドラマ「半沢直樹」を彷彿させる銀行の闇にもがきながら頭取・社長に上り詰め、最後は腹を切らされた。痛恨の銀行家でもあった。

 西川は2度、意に沿わない退任を迫られた。1度目は、三井住友銀行頭取として、2度目は日本郵政の社長として。

マル秘リスト「西川案件」

 2005年2月、三井住友銀行は3月期決算の下方修正を発表、赤字決算の見通しを明らかにした。当初の予想は黒字で、西川は引き続き頭取を務める筋書きだった。ところが金融庁が特別検査に入り事態は一転、膨大な不良債権が見つかり、決算は2300億円の赤字となる。責任を問われた西川は6月の総会で退任、頭取の座を奥正之に譲った。

 決算直前の大手行に金融庁が立ち入り検査をするなど異例のことである。「表に出ていない不良融資先リストが金融庁に持ち込まれたらしい」と銀行内でささやかれた。「西川案件」と呼ばれたマル秘リストを知るのは企画部など経営中枢に限られていた。

 誰が金融庁に通報したのか。

「犯人探し」が始まった。

住銀による三井銀の制圧

合併を発表する住友銀行の西川善文頭取(右)とさくら銀行の岡田明重頭取=1999年10月14日午後7時、近藤卓資撮影
合併を発表する住友銀行の西川善文頭取(右)とさくら銀行の岡田明重頭取=1999年10月14日午後7時、近藤卓資撮影

 財閥の壁を超えた大合併と称賛された住友銀行と三井銀行(合併当時はさくら銀行)の合併が実現したのは2001年。表向きは「対等合併」だが、金融界では「住銀による三井銀の制圧」とも見られていた。

 合併には「人心融和」と並んで厄介なことがある。『半沢直樹』でも描かれた「それぞれの銀行が抱える表沙汰にしたくない案件」の共有である。住友銀行の「問題案件」も三井銀行側に知られる。

「疑われたのは三井側で経営の中枢にいた人物でした。当時、都内の支店長に出ていたが、西川退任のあと、企画部長に抜てきされた。つまり流出は住友側も組んでいた、ということだった」。西川の側近はそう明かした。であるなら、行内抗争がからむ追放劇である。

 数年後、西川にこの「観たて」を尋ねたことがある。「今更、それを言ったところでしょうがないでしょう」。ぶぜんとした表情で、否定しなかった。

 晩年の西川には「独断専行」が目立った。

 その一つが世界最強のインベストメントバンクとされたゴールドマン・サックス(GS)との提携だった。三井住友フィナンシャルグループは不良債権を処理するため、増資が必要だった。どこに出資を求めるか。世界的な勢力図に影響する決断である。西川はゴールドマンにこだわった。国際業務に精通する奥副頭取は「三井はモルガンと関係がある。対等な競争条件で外国証券を競わせたほうがいい」と助言したが、耳をかさなかった。

 UFJ銀行と東京三菱銀行の合併が報じられると、合併に待ったをかけ、割り込もうとした。UFJを横取りされた、という思いがあったのだろう。無理筋と思うような西川の強引さをいさめる力は行内になかった。表向き西川に逆らう動きなどないなかで、金融庁への「通報」が局面を変えた。

日本郵政に誘った竹中平蔵氏

 こんな形で銀行人生が終わるとは思ってもいなかっただろう。退任の記者会見で無念さをにじませ「もう皆さんの前に出ることはないだろう」と語った。ところが半年もたたない05年11月、「日本郵政社長に就任」の記者会見に臨み、世間を驚かせた。全国銀行協会の会長を2度務め、「郵便貯金は民業を圧迫している」と主張していた本人が、「敵陣営のトップ」に走ったのである。

 誘ったのは郵政民営化の旗を振る竹中平蔵総務相だった。

竹中平蔵さん
竹中平蔵さん

 竹中には「借り」があった。2002年の暮れ、ゴールドマンの会長ヘンリー・ポールソンが社長のジョン・セインを伴ってが来日した。

 ポールソンは後にブッシュ政権の財務長官に、セインはニューヨーク証券取引所のトップに納まる米国金融界の大物である。

 西川は金融担当相だった竹中を誘って二人と会った。金融不安が話題になり、セインが竹中に「三井住友グループは大丈夫かね」と尋ねた。竹中は「株価を見てください。市場の評価はあの順番です」。

 三井住友の株価はメガバンクの中で東京三菱に次ぐ位置にあった。「メガバンクが2行に減っても生き残る」と金融相が示唆したとも受け取れる発言だった。ゴールドマンは増資に応じ、西川は窮地を脱した。

軍隊組織と違う郵政

 頭取を辞める頃、大腸にがんが見つかった。検査と称して住友病院に入院している時、竹中の使者が訪れ、退院すると「日本郵政社長」を懇願された。竹中の後任となった菅義偉総務省は、政府の思うように動かない生田正治総裁を外し、西川に日本郵政総裁を兼務させた。

 銀行で手腕を発揮した西川の馬力に期待したのである。

 ところが官業のぬるま湯に慣れきった郵政の現場は、打てば響く軍隊組織の住友銀行のようにはいかなかった。郵政選挙で自民党が割れた後遺症で、現場はささくれだっていた。

 お役所仕事に慣れきった郵政は、軍隊組織のような住銀のようには動かない。号令や指示は末端に届かない。労働組合や郵便局長会が力を持ち、社長を突き上げる。皆が頭取と同じ方向を向く銀行とは大違い。よそ者の社長が何するか、周囲はうかがうばかりだった。

反対した妻・晴子

「郵政って政治が絡んだ難しいとろでしょ。あなたに務まる仕事じゃありませんよ」と反対した妻・晴子の言葉が当たっていた。

 小泉政権が終わり、第1次安倍政権になると「郵政民営化反対」を叫ぶ国会議員が自民党に復党。国会で答弁すると与党席からもヤジが飛んだ。

 政権は民主党に移り、政治的足場がなくなった。金融担当相になった亀井静香に呼ばれ「郵政の経営は根本から変わる。進退はご自身で」と通告された。打ち首にはしない、腹を切れ、と言うことである。仕事師・西川の金融人生は09年10月、71歳で終わった。

新聞記者を目指していた

 生まれは奈良県橿原市。大阪大学では新聞記者にでもなろうかと考えたという。勘が鋭く、チャレンジ精神旺盛な西川が記者になっていたら、どんな記事を書いていただろうか。たまたま友人に誘われ、住友銀行を訪問したのが人生の岐路だった。

 面接した人事部長が後に頭取になる磯田一郎だった。

「よし、専務に会え」と言われ、「銀行は厳しいぞ」と言う専務に、「なにが厳しいのですか」と問い返すと「競争が厳しい」。とっさに「競争は望むところです」と応じた。「住銀から内定をもらった」と告げると材木商の父は喜んだ。その表情を見て「銀行にするか」と決めたという。

転機となった安宅産業

 磯田との縁が再びつながるのが安宅産業事件。石油ショックのあおりで中堅商社が倒産した。

 メインバンクの住銀が損害を被り連鎖倒産を防いだ。

 決断した頭取が磯田で、破綻処理の後始末を任されたのが西川だった。銀行がまだ元気なころで、バンカーの醍醐味は成長性ある企業に融資して育てることだった。

安宅産業本社昭和52年9月大阪市・東区今橋
安宅産業本社昭和52年9月大阪市・東区今橋

 そんな時、西川は「不良債権の処理」に黙々と取り組み、企業再生の手腕を磨いた。企業の死臭を嗅ぎつけて寄ってくるハイエナのようなやからとも付き合った。やがて実績が評価され、企画部長に。その年は磯田は平和相互銀行を合併、東京進出の橋頭堡を築く。

 反社会的勢力や政治がらみの案件を抱える平和相互の処理を任された。多額の損失を克服し、収益ナンバーワン銀行に復帰することが西川の任務だった。「頭取が3年で、というなら2年で達成しよう」と高い目標を設定した。

「できるわけない」という冷めた反応を蹴散らすように「いままでやったことのない営業で成果を上げろ」と尻をたたいた。

 融資は客から頼まれてから、という常識を覆す「提案型融資」が登場する。登記簿を調べ担保がついてなければ突撃して貸し込んだ。使途は何でもいい。土地・株・ゴルフ会員権から相続対策の借金作りまで。沸騰するバブルの中で貸し出しは面白いほど膨らんだ。

「実体のない融資をあおるべきではない」と正論が出たが「それで収益が上がるのか」と西川は一喝した。

 時代はバブルへと突入し、乱舞するマネーの魑魅魍魎が集まる時代。

 経営中枢に反社会的勢力が忍び寄ったのがイトマン事件だった。

イトマン事件絵画取引疑惑大阪地検、全国50カ所を一斉捜索押収した資料を運び出す大阪地検の係官((大阪市北区、関西新聞社前で1991年4月24日深夜撮影)
イトマン事件絵画取引疑惑大阪地検、全国50カ所を一斉捜索押収した資料を運び出す大阪地検の係官((大阪市北区、関西新聞社前で1991年4月24日深夜撮影)

 磯田子飼いの元常務、河村良彦イトマン社長は平和相互合併の立役者でもあり、住銀から巨額のカネを引き出しては投機に当てていた。暴力団とつながりがある人物がイトマン役員を務め、磯田の私邸に出入りした。

恩人への反旗で道が開けた

 そんななかで1990年10月、磯田は突然、会長を辞任した。青葉台支店で起きた不正融資の責任を取る、というのが表向きの理由だったが、西川は磯田の真意は別のところにある、と読んだ。

巨額不正融資仲介事件の責任をとって辞任を表明する磯田一郎住友銀行会長。右は巽頭取(住友銀行東京本部で1990年10月7日撮影)
巨額不正融資仲介事件の責任をとって辞任を表明する磯田一郎住友銀行会長。右は巽頭取(住友銀行東京本部で1990年10月7日撮影)

 頭取の巽外夫に「お前もやめろ」と迫っていた。思いのまま動かせる頭取に替えて、磯田はイトマンの闇をうやむやにするつもりだ。そう考えた西川は行動に出た。東京・信濃町の住友銀行会館に本部の部長を集め「このままでは住銀に未来はない」と訴えた。頭取の巽には「銀行のために職務に踏みとどまって」という趣旨の連判状を届けた。巽は辞任を思いとどまり、磯田の思惑は打ち砕かれた。

 切れ味鋭い経営者だった磯田に老いと保身を感じた。恩人であっても、許すわけにはいかない。反旗を翻すことで、頭取への道が開けたが、苦難の始まりでもあった。

 平和相互、イトマンなど反社会勢力など絡む深い傷は、西川が引き受ける宿題となった。処理しきれず底にたまっていた「問題融資」が、大合併の成功で表に出ることになったとしたら皮肉な結末である。

 銀行はつくづく「イメージ産業」だと思う。

 巨大な本店を構え、有名タレントを起用する巧みな宣伝で信頼や親しみを演出する。高学歴の高給取りが行儀良く働いているように見えるが、内情はお客や得意先を踏み台にすることもいとわない苛烈な成果主義である。

「競争は望むところだ」と意気込んだ西川は、「収益の鬼」と言われるほど辣腕を振るったが、最後は追われるように去った。

孤独だったラストバンカー

西川善文氏(2009年)
西川善文氏(2009年)

「使命感の強い男です。重い荷物でも頼まれれば断らない。困難ならなおさら挑戦したくなる。そこが美点であり難点でもある」。銀行の同期生で関西アーバン銀行社長を務めた故小松健一の西川評である。

「難しい仕事でも、知恵を絞り、諦めずやっていると道が開ける。それが面白くて」と西川は語っていた。しかし、輝いていたのは頭取になったころまでだったように思う。

 就任した97年、北海道拓殖銀行や山一証券が倒れ、金融危機が始まり、苦い表情が目立つようになった。増資や合併など手を打ち、業務を広げ消費者金融まで乗り出したが、個人の力には限りがあった。銀行そのものが時代の波に洗われていた。

 激動の金融界を生き、「ラストバンカー」とはやし立てられたが、案外孤独だった。日本郵政を辞めたあとは、晴子さんとひっそり暮らし、表に出ることは少なかった。深大寺の自宅で月下美人を丹精込め育て、一夜だけ咲く花を夫婦で楽しんでいた。

(山田厚史・ジャーナリスト、デモクラシータイムズ同人)

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