週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用

不妊治療、闘病、離婚、介護…「逆境のたびに曲ができる」大黒摩季の強さの理由

    「本当は一人でいるのが好き。自粛生活も苦にならず、10カ月連続で全12曲作っちゃいました」歌手の大黒摩季さん(撮影・佐々木龍)
    「本当は一人でいるのが好き。自粛生活も苦にならず、10カ月連続で全12曲作っちゃいました」歌手の大黒摩季さん(撮影・佐々木龍)

     多くの人の共感を呼ぶ曲を、いくつも世に送り出す大黒摩季さん。昨年12月には15枚目のアルバムをリリースした。不妊治療や離婚、母の介護……と、相次ぐ逆境の中で自分を奮い立たせてきた。

    (聞き手=市川明代・編集部)

    「神様、私に人間の全ての感情を与えてください」

    「『自分を使い果たしたい』と、曲の中で言い切れた。人生で 一番楽しい時を迎えています」

    ── 新型コロナウイルス禍で中止になったツアーを仕切り直して、昨年後半に全12公演を果たしました。

    大黒 最初の緊急事態宣言に始まって、落ち着いたから「さあイベントをやろう」と準備すると、次の波が襲ってくる……。その繰り返しに、エンターテインメント業界は疲弊しきっていました。実家に戻って家業を継ぐ人も、会社勤めを始める人もいて、このままじゃ業界全体がだめになる、という危機感が広がっていました。(ワイドインタビュー問答有用)

     私には、自分のチームを守る責務があります。トランスポート(運搬)の人がいて、セットを作る人がいる。ツアーをやって初めて彼らの稼ぎになる。体力のある大物アーティストは、時が来るのをじっくり待つ。若手は上の世代が動くのをじっと見守っている。その間にいるのが中堅の私たち。「摩季ちゃんがやるしかないでしょう」って周囲に言われて、やっぱり私がやるしかないなと。

    ── 12月18日のパシフィコ横浜(横浜市)でのツアー千秋楽では、座席の間隔の確保はもちろん、事前の接触確認アプリの登録の義務付け、入場前の足裏消毒や検温など、対策を徹底していましたね。

    大黒 ライブをやるからには、お客さんを誰一人感染させないようにしなくてはならない。私には、がんを患い、施設に入所している母がいます。母を安心して連れてこられるぐらいに感染対策を徹底しようと思いました。

    「そこまでやるのか」という声もありました。みんなに納得してもらうために、日本感染症学会に所属する専門家のアドバイスも仰ぎました。私は公演の前日に欠かさず、他のメンバーも2週間に1度、PCR検査をした。「陰性じゃなきゃ連れて行かないよ、それが地方の人たちへの礼儀でしょ」と伝え、納得してもらいました。

    2020年は「PHOENIX TOUR~待たせた分だけ100倍返しーっっ!!!」と題してツアーを実施。予定していた14公演のうち北海道の2公演を除く12公演で、ステージに立った。歌手の大黒摩季さん(ビーイング提供)
    2020年は「PHOENIX TOUR~待たせた分だけ100倍返しーっっ!!!」と題してツアーを実施。予定していた14公演のうち北海道の2公演を除く12公演で、ステージに立った。歌手の大黒摩季さん(ビーイング提供)

    ── 千秋楽でのステージでの演出は、平時と変わらないように見えました。

    大黒 実は、ステージ上でも人と人とが向き合わないように、すごく計算しました。互いに背中合わせにするとか、先に行った人たちの顔が向こうを向いた後で絡みにいくとか。あまりにもいつもと違っていたら、見ている方が寂しくなるから、気付かせないように。

     感染症対策の専門家には、不織布のマスクをしてフェースシールドを着けて、大きく口を開けずハミングするのであれば、問題ないと言われていて。だから、「ら・ら・ら」という曲のサビを「る・る・る」や「れ・れ・れ」に変えて歌ってもらった。ギリギリのラインでした。あれ以上苦しいツアーだったら、続かなかった。でも、やり抜いたことで業界標準を作れたと思っています。

    初ライブ直前に病発覚

     ツアーで掲げた昨年12月発表の15枚目のアルバムは、その名も「PHOENIX」(=不死鳥)。若い頃から何度も「逆境」に立ち向かい、乗り越えてきた自分自身を重ねたという。高校卒業後に北海道から上京し、下積み時代を経て1992年にデビュー。「あなただけ見つめてる」「ら・ら・ら」──と立て続けにミリオンヒットを放つが、その間ライブもテレビ出演もなく、「大黒摩季はコンピューターグラフィックス(CG)で、実在しない」という都市伝説まで生んだ。97年、27歳の夏に、4万7000人を集めた初ライブで初めて聴衆の前に姿を現す。だが当時、既に体に大きな不安を抱えていた。

    ── 初のライブの前に、人生を左右する大きな決断を迫られたのですね。

    大黒 ライブの半年前、リハーサルで突然、高音が出なくなりました。どの病院に行っても異常が見つからず、女性マネジャーに受診を勧められた婦人科で、子宮内膜症や子宮筋腫などの病気が発覚して。医師には「将来子どもがほしいなら、いま集中的に治療するしかない」と宣告されました。「歌か、子どもかだね」と。

    ── チケットは完売していたそうですね。

    大黒 スタッフと合わせて5万人近い人たちの期待を裏切ることは、私にはできない、と腹をくくりました。ただ一方で、「いつか『この人の子どもがほしい』と思える人と出会った時には、医療はもっと進歩しているはず。未来に懸けてみよう」と、どこか能天気でもありました。

    ── そこから、病気の進行を抑える治療と音楽活動をどう両立させたのですか。

    大黒 子宮内膜症は、本来は子宮の内側にしか存在しないはずの子宮内膜組織が、卵巣や腹膜にできてしまう病気です。子宮内膜は卵巣から分泌される女性ホルモンによって増殖するので、薬によって脳に妊娠中であるという「誤報」を与えて排卵をストップさせる必要がありました。

     治療中は高音が出せなくなるので、公演が近づくと治療を中断する。そうすると、ものすごい出血と激痛に襲われる。でも痛み止めの薬は飲めない。高音で歌うには、体のポジションの取り方などにものすごく集中力が必要で、鎮痛剤で感覚が鈍ると思うように歌えないんですよ。だから痛みに耐えて、ステージに立っていました。

    ── 2003年に結婚して、今度は病気の治療と不妊治療を同時並行させることになりました。

    大黒 子宮内膜症や子宮筋腫のほかに、子宮筋層に子宮内膜に似た組織ができてしまう子宮腺筋症などを抱えていて。いよいよ体が負担に耐えきれなくなって、10年8月に活動休止宣言をして、子宮を温存したまま悪い部分だけ切除する大手術を受けました。症状は改善したけど、その後も体外受精は何度トライしてもうまくいかない。精神的には、仕事をしている時のほうがよっぽどマシでした。

    ── そして、米国の代理母に望みを託した。

    大黒 受精卵は着床するけれど、そのたびに流産してしまう。毎日、泣いて泣いて。最後は自分の子宮にこだわるのはやめようと、15年に子宮全摘手術を受け、卵巣の働きを良くして良質な卵子を採取する治療に専念しました。代理母に2度受精卵を託して、17年に治療に終止符を打ちました。

    ── 16年8月のライブで活動復帰。その後、子どもを産むことを諦めて……

    大黒 みんな、「諦める」って言葉は、やめたほうがいいと思う。私は諦めたのではなくて、自分で終えたの。夫のためにも、自分の心の平和のためにも。ただ、夫を含め、周囲はまだ子どもを諦めきれないところがあった。だから、新たな幸せをつかんでほしいと、私から別れを切り出しました。同情は、されたくなかった。自分で決めたんだから。私にとっては、自分のせいで、この人の幸せを奪っているかもしれない、と思ってしまう状態のほうが拷問でした。

    母の介護も同時に

     19年4月に離婚した大黒さん。自身の治療と同時に、母・美也子さんの介護も抱えていた。北海道で暮らしていた美也子さんは00年、脳出血で倒れ、左半身にマヒが残って車椅子生活に。その後、乳がんやステージ4の肺がんも見つかった。東京での大黒さんとの同居生活を経て、現在は近くの介護施設で暮らす。18年のアルバム収録曲「Mama forever」には、「ねぇ ママ 死にたいなんて言わないで」「お荷物だなんて言わないで」──と、介護中の母への思いがつづられている。

    「レコーディングも妥協せず、徹底的に作り込む。曲は〝育つ〟から」
    「レコーディングも妥協せず、徹底的に作り込む。曲は〝育つ〟から」

    ── 普通なら逆境続きに参ってしまいそうですが……。

    大黒 私自身は逆境に強いんじゃなくて、どうしようもないことにジタバタしないだけ。母への接し方も覚えて。さまざまな治療を試し、がんのステージもいったん2まで下がりました。

     実は私、上京して6畳一間の自分の部屋で初めてひとりぼっちの誕生日を迎えた時に、浅草の浅草寺に行って「神様、私に、人間が感じる全ての感情を与えてください」ってお願いしたんですよ。当時は、クリエーティブな感性がほしくて。なぜ私の人生はこんなにも波瀾(はらん)万丈なのかと考えてみたら、ああ、そういえば浅草行ったよなと(笑)。

    ── そうやって、共感を呼ぶ名曲の数々が生まれたのですね。

    大黒 私は、ジェットコースターみたいな性格です。ものすごくハイになるけれど、ものすごく落ち込む。心底好きになって捨てられる。でもそのたびに曲ができる(笑)。誰かのためではなく、自分自身を奮い立たせるために、曲を作ってきた。そこにファンが共感してくれているのだと思います。

    ── 第一線で歌い続けてこられた秘訣(ひけつ)は。

    大黒 私自身は有名になりたいと思ったことも、スターになりたいと思ったこともない。ただ音楽を続けていたいだけ。レコーディングでも、エンジニアたちと作り込むうちに朝になってしまったりして。何通りも録音した素材をミックスして、最高のものを見つけるのは、ロールプレーイングゲームでキャラクターを探し出す喜びと一緒。オタクなんです(笑)。

    ── そうした性格は子どもの頃からなんですか?

    大黒 体育館の跳び箱の陰でイヤホン付けて音楽聴いてるような子どもでした。孤立しているんじゃないかとみんなが声をかけてくれるけれど、「お願いだからそっとしておいて」って。感情を言葉で表すのが苦手で、いつも思いを音にしていました。作曲から始めて、会話を聞いたりラジオを聞いたりしながら歌詞を作るようになって。ボーカリストとしてやっていこうと思ったのは、ずっと後です。

    ── 来年はデビュー30周年ですね。今の心境は。

    大黒 プライベートは全然だめだけど、音楽的にはめちゃめちゃ「モテ期」です。昨年は、秋に指揮者の柳沢寿男さん率いる特別編成の「バルカン特別交響楽団」と一緒に歌わせてもらいました。年末には、吉川晃司さんの特番に呼んでもらってコラボしました。

     下積み時代に時間を無駄にせず、ボイストレーニングに通ったりレッスンを受けたり、腐らずにバックコーラスを頑張ったりしておいてよかった。51歳、人生で一番楽しい時を迎えています。

    ミュージカルに初挑戦

    「ファンは、同じ時代をともに生きている仲間」歌手の大黒摩季さん(ビーイング提供)
    「ファンは、同じ時代をともに生きている仲間」歌手の大黒摩季さん(ビーイング提供)

    ── 岸谷五朗さん脚本・演出のミュージカル「The PROM」(東京公演は3月10日〜4月13日・TBS赤坂ACTシアター、大阪公演は5月9〜16日・フェスティバルホール)に出演します。ミュージカルは初の挑戦ですね。

    大黒 泣きながら練習してますよ。「え? 右足はどっち向けたらいいの?」って。何せ歌だけで生きてきたから、歌のないダンスだけの時は、手脚をもがれたような感覚。でも岸谷さんから「お客さんは頑張っている大黒摩季を見たいのであって、完璧に踊ってる姿なんて期待してないよ」と言ってもらって、楽になりました。

    ── よく引き受けましたね(笑)。

    大黒 岸谷さんが、断っても何度も来られて、「どうしても大黒摩季に歌ってほしい」って。天下の岸谷さんがそんなに言ってくれるなら、私にも何かあるのかなと。

     私自身、すごく気に入ってる言葉がある。アルバム「PHOENIX」の最後の曲「走れ! 走れ! 走れ!」の中の「自分を使い果たして終わりたい」というフレーズ。不妊治療で苦しんだ後、「神様、なんでこんなに役に立たない体を作ったの」ってすごく落ち込んで、でも「こういう感情を乗り越えて生きていかなきゃいけない」、そう思った時にひらめいた言葉です。ミュージカル出演を引き受けたのも、この言葉を思い出したから。「自分を使い果たす」と言い切れた自分を、誇りに思います。


     ●プロフィール●

    大黒摩季(おおぐろ・まき)

     1969年生まれ。北海道出身。中学時代からバンド活動を開始し、高校卒業後の88年に上京。所属事務所のB'zやTUBE、ZARDなどのバックコーラスを経て92年にデビュー。2枚目のシングル「DA KA RA」で日本レコード大賞新人賞を受賞した後、「あなただけ見つめてる」「ら・ら・ら」などでミリオンヒットを記録した。2020年12月に15枚目のアルバム「PHOENIX」を発表した。

    ※本誌初出:逆境を乗り越えて=大黒摩季 シンガー・ソングライター/834

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