「多様性の尊重」どこへ 東京パラ強行開催の「愚行」=鈴木哲夫〈サンデー毎日〉
学ぶべきは「子ども」より「大人」
東京パラリンピックは、小中高校生らが学校単位で観戦する「学校連携観戦プログラム」の行方が不透明ながらも無観客で開催される。しかし、「多様性の尊重」をうたう祭典で、本当に「教育」されるべきは誰なのか。探ると強行開催の愚かさが見えてくる。
8月24日開幕の東京パラリンピックは大会組織委員会、東京都、政府、国際パラリンピック委員会の4者協議で、新型コロナウイルスの感染拡大を考慮し、全会場無観客で開催すると決まった。一方、学校連携観戦プログラムについては、関係自治体と協議しながら実施すると決めた。
組織委の橋本聖子会長は8月16日の4者協議後、記者会見でこう言った。
「子どもたちがパラリンピアンの姿を見ることは、正に教育に値する大きなもの。万全の感染対策を講じた上で、ぜひ子どもたちには見てもらいたい」
小池百合子都知事も同日、次のように語った。
「(無観客は)都としても賛同した。(観戦プログラムは)子どもたちに共生社会を言葉だけでなく、目の前で体験してもらいたい」
実は、障害者スポーツの分野を取材して35年以上になる。その立場から言えば、今回の決定と両トップの発言には、パラリンピックの本質が分かっているのかという疑問が湧く。今回の結論はただ一つしかなかった。それは「延期」だ。
障害者スポーツ取材がライフワークになったきっかけは1984年。当時、私は福岡のテレビ報道記者で、日本初の脊髄(せきずい)損傷専門医療施設だった「総合せき損センター」がある福岡県飯塚市の民間テニスクラブから電話がきた。旧知のクラブ関係者は言った。
「車いすの障害者が一人で来て壁打ちをしている。ハードコートなので車いすでも大丈夫なんだけど。珍しいから取材してみれば」
訪ねてみると、車いすのプレーヤーは松尾清美氏(現KT福祉環境研究所代表、元佐賀大准教授)。松尾氏は学生時代、テニス部に所属していた。だが、交通事故で脊髄を損傷して車いす生活になった。ただ、好きなテニスは車いすでもやりたい。当時、日本ではまだ車いすテニスが本格的に広まっていなかった。だが、松尾氏はハードコートなら壁打ちができると、ただ一人で練習していた。
私はニュースで取り上げ、松尾氏は「いつか国際大会を飯塚で開きたい」と夢を語った。何と、それを見た地元財界や医療関係者が動き出し、翌85年には国際大会が開催された。松尾氏も私もスポンサーや協力団体探しに走り回り、松尾氏はダブルスで3位入賞した。「飯塚国際車いすテニス大会」は今も続いている。2018年には天皇杯と皇后杯が下賜された。
障害者スポーツの中でも車いすテニスの最大の特徴は、競技スタイルが障害者福祉や共生社会そのものを象徴していることだ。障害者スポーツは元々、治療やリハビリの側面が強かった。それが競技として独り立ちするのだが、楽しむ相手は障害者同士というのがほとんど。健常者が一緒に楽しもうとすれば、健常者が車いすに乗ったり、視覚障害者を相手に目隠しをしたり。同じような条件を整えて戦うほかない。
ところが、車いすテニスは違う。一つのコートで車いすプレーヤーと健常者が対戦できるのだ。「健常者は1バウンド、車いすは2バウンドまでに打ち返せばよい」とルールなどを工夫すれば、両者がそのまま互角にテニスで戦えるのだ。
「これこそ障害者と健常者が同じ社会にそのまま共生する姿そのもの」(松尾氏)
海外の車いすプレーヤーには、テニススクールで健常者のコーチをしているケースもある。障害者が健常者にスポーツを教える。そこには障害の有無は関係ない。社会での真の共生だ。
そもそも日本の政治・行政における障害者福祉は、予算と隔離に偏ってきた歴史がある。車いすには、予算を取ってスロープを作ればそれでよし。視覚障害者には、点字ブロックや音響信号機を作ればよし。障害者施設は人里離れた所に作る。政党などは予算確保を達成することに血眼をあげてきたから、それはそれで政治の成果としてきた。
世界の障害者が東京の街に出る
しかし、障害者の社会参加が進んでいる諸外国は違った。私がかつて取材した米国は、脊損センターは山奥どころか街中の百貨店の隣にある。車いすの障害者は一歩外へ出ればそこは繁華街。そこら中にスロープがあるわけではない。道路に段差があると、障害者は気軽に健常者の通行人に声をかける。「エクスキューズミー(すみません。手を貸してくれませんか)」と。通行人は「OK」と笑顔で車いすを抱えて手伝う。必要なのはお金をかけたスロープなどではない。当たり前のように障害を認め、助け合う文化だと感じた。
東京パラリンピックは正に、こうした本当の共生社会のあり方を考える絶好の機会ではなかったのか。
世界中からやってくるパラリンピアンが選手村を飛び出し、開催地の東京をはじめ首都圏の街の中へ、どんどん出て行ってほしかった。競技場外で住民に気安く声をかけ、住民も気安く手を貸すことの素晴らしさを教えてほしかった。障害者の福祉や社会参加を考える、さまざまなイベントにも加わってほしかった。
これらを学ぶべきは小学生よりも、むしろ大人だ。組織委や都が「子ども」と連呼することに違和感を持つのはそこだ。そして、世界の障害者と開催地の人々が接するには、新型コロナの収束が必要だった。私が「延期」と主張するのは、そんな理由からだった。
政治的視点からも断言できる。これから東京は高齢化社会に突入する。高齢者は体力的にも普通に生活するのは難しい。障害者と共生していく街は高齢化社会の都市政策のあり方のヒントにもなる。パラリンピックは高齢化社会へのレガシーとなるのではないか。
五輪に比べ、テレビ放送の機会も圧倒的に少ない。私は競技場にも行けず、悔しい思いでリモコン片手に、数少ないパラリンピック中継を探すつもりだ。
すずき・てつお
1958年生まれ。ジャーナリスト。テレビ西日本、フジテレビ政治部、日本BS放送報道局長などを経てフリー。豊富な政治家人脈で永田町の舞台裏を描く。テレビ・ラジオのコメンテーターとしても活躍。近著『戦争を知っている最後の政治家 中曽根康弘の言葉』『石破茂の「頭の中」』