眞子さまが変える皇室の恋愛=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
不安の時代の「小室叩き」
「美智子さまモデル」から変化
地位や出自より居心地の良さを選ぶ
眞子さま(29)が年内にも結婚する。結婚後は米国で小室圭さん(29)と新生活を始めるという。私は、皇室の恋愛・結婚を研究してきた。その立場から、ここまでバッシング(国民的マリッジ・ハラスメント)を受けてきた2人が、なぜ結婚するのかという問題を考えてみたい。社会における恋愛・結婚の意味の変容、皇室のあり方の変化という背景があると思う。
近代の遺物としての恋愛
「恋愛って何?」と聞かれたら、どう答えるだろうか。運命の人と出会い、親密になり、永遠の関係を誓って、添い遂げる――。これが、従来、恋愛と考えられてきたものだ。社会学は「ロマンティック・ラブ」と呼ぶ。
63年前、正田美智子さん(現・上皇后)と明仁皇太子(現・上皇)の関係が、まさにロマンティック・ラブであった。こうした恋愛は、戦後に出現したと考えられているが、歴史は長い。
近代的恋愛には以下の特徴がある。(1)相手を選ぶ際、当人の意思が尊重される(2)恋愛と結婚が直接的に結びつく(3)パートナー以外との性関係や親密交際はタブーとなる(4)婚姻関係は亡くなるまで継続する
「ロマンティック」という情緒的な響きとは逆説的だが、愛する感情が、結婚という制度に封じ込められることが重要である。
こうした傾向は明治中期に現れはじめ、大正期以降に一般化した。1922(大正11)年には恋愛至上主義のバイブル『近代の恋愛観』がベストセラーとなる。
明治中期以降のカップルは、それまでの「家」とは異なる「家庭」をつくった。社会学は「近代家族」と呼んだ。サラリーマンの夫、専業主婦の妻、おおむね2人の子供からなる核家族だと考えていい。40代以上の「日本の近代」を知る世代の多くは、消費社会にも駆動され、恋愛し、家族をつくることこそ人の重要な役割だと信じ込んできた。
しかし、ロマンティック・ラブは近年、評判が悪い。キャリア、とくに女性の人生と、恋愛・結婚がうまく整合しない。女性を家庭に縛りつける抑圧性やドメスティック・バイオレンスなど、家のなかの支配構造を覆い隠していた。恋愛強者と弱者のカーストが形成され、弱者は負け犬と呼ばれた。セックスがゴールであり、その後の関係は結婚というシステムに頼り、「ラブ」の内実も損なわれがちだった。
ことに女性は、年収や地位が高い相手との結婚(上昇婚)を目指し、結婚して「生まれ変わる」ことを目標にしていたのだ。
こうした恋愛(ロマンティック・ラブ)は、20世紀(近代)の遺物である。
新しい愛としてのコンフルエント・ラブ
教員として日々、学生と接するなか、若者の恋愛や結婚観は、かなり変容したことに気がつく。今の女子大生にとって、結婚による「生まれ変わり」はかつてほど重要ではない。異性関係のなかの自分らしさや心地良さこそ大切になっている。
英国の社会学者アンソニー・ギデンズは、近代家族とロマンティック・ラブの理想は崩壊する傾向にあるとし、新しい愛の形態を「コンフルエント・ラブ」と呼んだ(『親密性の変容』)。コンフルエント(confluent)とは「合流する、融合する」との意味である。相手の性格や人間性を理解することにこそ重きを置く愛の形と言っていい。男性の年収・地位、女性の容貌・優しさのようなステレオタイプ化した魅力は重要でない。飾らない自分をどれだけ相手にさらけ出せるかに価値が置かれる。
現代の若者で合コンに励む人は少数派だろう。友人を通じた出会いでは階層性が固定されるためである。使われるのはマッチング・アプリだ。そこでは例えば年収の高さが重んじられるわけではない。その代わり、自分であることを丸ごと認めてくれる相手を探す。
近年の若者には「ソフレ」という言葉もある。添い寝フレンドのことだ。男女の友人が添い寝をするもののセックスをする関係ではない。朝まで本気で語り合い、疲れたら寝てしまう。微量な恋愛(的)感情のなかの多様な関係がコンフルエント・ラブの特徴である。
この場合、永続性は重視されず、関係に満足しない場合、別の道を歩むという選択もありえる。コンフルエント・ラブは流動的だ。
こうした立場から見ると、離婚すれば社会的地位や経済的満足が低下するとの理由で、愛情がないのに婚姻関係を維持する夫婦こそ「不純」となる。婚外の純粋な男女の交わりを「不倫」と糾弾することの方が問題に見える。
眞子さまが求めるもの、それは正田美智子さんのときの恋愛(ロマンティック・ラブ)とは異質なものである。眞子さまに、小室さんの年収や地位や出自は関係がない。義母となる人に「借金」があるとか、週刊誌に悪く書かれることも、どうでもいい。結婚という制度自体も重要ではない。
眞子さまにとって、小室さんはかけがえのないパートナーである。ご自身が皇族であるため、周囲の男性の多くは「この女性はやめておこう」と親密な関係に進展しなかっただろう。ところが、小室さんだけは、自分を人として受け入れ、接してくれた。居心地がいい人間関係は、皇室育ちの眞子さまにとって初めてだったはずだ。
小室さんが米国に留学した2018(平成30)年8月以降、2人は3年間一度も直接会っていない。しかし、二次元空間の恋愛まで存在する21世紀、それは重要ではない。
眞子さまに「相応の相手と結婚したら」とか「長続きしないと思うよ」と言ってあげたい昭和的感覚(正確には、近代的な感覚)は理解できる。しかし、新世代にとってはありがた迷惑なアドバイスになっている。2人の関係に「喝っ!」と叫んではいけない。
家族の理想であった皇室
20世紀、皇室は家族のモデルであった。夫婦として仲睦(なかむつ)まじく過ごすことが最大の職務であった。
日本社会全体が、近代化という目標に向かった時代性が重要である。村落社会では村という共同体が生活規律の中心であった。ところが、近代化で人びとが都会に出ると、家族が社会の重要な単位となる。
皇室の苦悩は日本の苦悩
近代家族は、子供たちが自由勝手に恋愛・結婚しないように、明治後期に「お見合い」という、恋愛感情を飼いならす制度を発明した。昭和戦後期は学歴という新たな階層性を利用し、自由な恋愛を統制してきた。かつての若者は学歴フィルターや恋愛至上主義のなかで、ステレオタイプの(社会が容認する)恋愛しかしなかったのである。
その統制のためのモデルが皇室であった。恋愛し、結婚して社会の一員となるという規範を提示するのが、その存在意義である。皇室は家族の理想とその規範的限界を示した。
近代家族の理想は崩壊しつつある。家族の脱近代化の動きは21世紀になり、明確になった。個人の自律性が増大し、結婚するかしないか、どのようなパートナーを選ぶのか、人びとがより選択的になっていく。
シングルマザー、非婚、事実婚、離婚……。結婚という形式が必ずしも重視されず、家族を単位とした社会は変容しつつある。近年では、LGBTQ(性的少数者)からの男女の常識への異議申し立てもある。家族は多様化し、恋愛も変わった。
このような時代、家族の模範であった皇室も変化せざるをえない。美智子さまのように、仲睦まじさを見せる役割から脱却し、新たなあり方を模索しなくてはならないのだ。
現実の皇室の家族はすでに多様化している。
2014(平成26)年に66歳で亡くなった桂宮さまに、事実婚の関係にあった女性がいたのは公然の秘密である。女性は、宮家の私的職員の立場で、介護が必要な宮さまを長年支えた。
故・寛仁(ともひと)さまは妻・信子妃との関係が悪化し、夫妻は2004年から一時期を除き別居状態にあった。2人の間の娘たちと、信子妃との関係も悪くなり、寛仁さま逝去(2012年)のあと、信子妃は宮邸には戻らず、母と娘はなお断絶状態にある。
現在、三笠宮家に彬子(あきこ)女王・瑶子(ようこ)女王、高円宮家には承子(つぐこ)女王という未婚の女性が3人いる。それぞれ39歳、37歳、35歳だ。
とくに彬子女王は海外で博士号を取得し、美術史研究者としてのキャリアを積む。彼女が非婚を志向しているのかは分からないが、今後、非婚宣言する皇族も現れるであろう。
性的少数者であると公言する皇族が出る可能性さえある。皇族にとっても従来型の結婚は重要ではなくなっていく。
雅子さまが、海外になかなか行けなかったこと、跡継ぎたる男児にめぐまれなかったことも、皇室の家族問題であった。
かつての皇室は、日本の家族の「未来の理想」を見せればよかった。一方、現在の皇室は、人びとの「現実」を映す鏡である。離婚の危機、事実婚、非婚、晩婚、嫁不足、結婚トラブル、親子対立と断絶、不妊バッシング、マタニティー・ハラスメント……。社会における家族のさまざまな問題が、現実の皇室において現れている。
「逃げ恥婚」へのエール
眞子さまと小室さんへのバッシングが続くのは、私たちが社会変動の時代にいるからだ。家族の輪郭がぼやけ、何が家族なのか分からなくなっている。災害や経済的な苦境も続き、日本の国際的な地位も低下した。
何かに確信が持てない時代に、人は過去とのつながりを確認してバランスを取り戻そうとする。伝統、正統性、国家・国民というアイデンティティーにすがりたくなる。不安の国の現代人は、伝統や正統性と懸け離れたところから出現した小室さんを糾弾したくなる。
そもそも男性中心社会では、男の成功は自力で達成すべきだと考えられてきた。小室さんのような逆玉婚(「玉の輿(こし)婚」の逆)はさげすまれていた。しかし、ステレオタイプの二元論はもはや通用しない。内親王の相手がニートであっても国際弁護士であっても、もはやどうでもいいのだ。
新しい時代の皇室は新しい愛を営めばいい。それこそが、「国民と共に歩む皇室」だろう。
2人の関係が永続しても数年で終わっても、幸せになっても不幸になってもどちらでもいい。駄目なら別な選択肢がある。
納采(のうさい)の儀、入内(じゅだい)の儀など結婚儀式は行わないという。しかし、そもそも皇室儀式は、近代以降に構築されたものである。
駆け落ち婚と書く週刊誌もある。逆に、駆け落ちで何がいけないのか。
内親王の結婚には国民の理解と納得が必要だという識者がいる。憲法に婚姻は両性の合意のみに基づくとあることをご存じか。
小室さんの母には借金トラブルがあるという。だからと言って、民間人である女性を隠し撮りしたり、完膚なきまで叩(たた)くのは明らかな人権侵害である。結婚延期以来、4年間、この無法状態を放置したこと自体、どうかしている。
時代は、近代から現代へ、そして超(ハイパー)現代へ移り変わっていく。その転機に、眞子さま問題がある。だが、メディアにもSNSにも、近代の立場からの古いコメントばかりでうんざりする。
私は「おめでとうございます」とか「幸せになってほしい」という陳腐な言葉は贈らない。その代わり、コンフルエント・ラブもテーマであった5年前のテレビ・ドラマのタイトルからの次の言葉を贈りたい。
「眞子さまと小室さん、逃げるは恥だが役に立つ。この絶望の国からNYに、はばたけ!」
もり・ようへい
成城大文芸学部教授(歴史社会学、日本近現代史)。1964年、埼玉県生まれ。京都大文学部卒、国際大大学院国際関係学研究科(修士課程)修了。博士(日本大文学研究科)。毎日新聞で皇室や警視庁担当、CNN日本語サイト編集長、琉球新報ワシントン駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)など