惨敗、感染、虐殺、略奪……。日本軍の失敗の実像描く=評者・田代秀敏
『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』 評者・田代秀敏
著者 広中一成(愛知大学非常勤講師) 角川新書 1012円
持久戦で消耗させられた「もう一つの失敗の本質」
「日本海軍は太平洋戦争で負けたが日本陸軍は日中戦争で負けていなかった、という言説が今日でも聞かれる」と本書は指摘する。
著名な『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一ほか著、中公文庫)も中国軍に言及していない。
しかし本当に、日本軍は中国戦線で失敗しなかったのだろうか。
「後期日中戦争」と著者が呼ぶ「太平洋戦争開戦後の日中戦争」の全体像を示すために、中国戦線に最初から最後までいた名古屋第三師団が参加した五つの作戦を、本書は追う。
開戦17日後の1941年12月25日に始まった第二次長沙作戦は、香港攻略を支援するための短期の陽動作戦として開始されたが、29日に司令官の独断で、遠方の長沙まで進攻する長期の戦闘作戦に変更された。
香港陥落後も作戦は続行され、兵力も食糧も弾薬も医薬品も致命的に不足したまま、42年1月15日に「稀(まれ)に見る負け戦さ」で終わった。
しかし、司令官は陸軍次官を務めたエリートだったので、責任を問われず、その後も順調に昇進を続け、陸軍大臣に上り詰めた。玉音放送の直前に自決した阿南惟幾(あなみこれちか)陸相である。
浙贛(せっかん)作戦(42年5~8月)では、七三一部隊がまいたペスト、コレラ、チフスの細菌に、進撃した日本軍将兵が感染し、戦死者1284人に対し戦病者は1万人を超えた。
江南殲滅(せんめつ)作戦(43年4~6月)は、日本軍が一方的に勝利したが、その過程で日本兵が湖南省廠窖(しょうこう)の住民を虐殺する事件が起きてしまった。
常徳殲滅作戦(43年11~12月)は、日本軍が戦時国際法違反の毒ガス弾を大量使用して辛勝した。
一号作戦(44年4~12月)は、約51万人の兵員と約10万頭の軍馬が1500キロメートル超を進撃するという、日本軍史上最大の作戦であった。
新たに約17万人の兵員と約8・5万頭の軍馬が補充されたが、小銃は「数名から十数名に一丁程度」の支給だった。6月になると後方からの補給線が途切れ、食糧は全て現地調達(実際は略奪)となった。
12月末には貴州省南部へ到達し、日本本土を空襲するB29爆撃機の出撃基地を占領するという作戦目的を達成した。だが8月に米軍はテニアン島を占領し出撃基地としており、作戦の戦略的意味は失われていた。
こうして明確な戦争目的も組織的計画も欠いた日本軍は、「日本軍を持久戦に追い込み消耗させる」という中国軍の長期戦略に嵌(はま)り敗北した。
「もう一つの失敗の本質」として、ビジネスパーソンさらには政治家の座右の書にふさわしい一書である。
(田代秀敏、シグマ・キャピタル チーフエコノミスト)
広中一成(ひろなか・いっせい) 1978年生まれ。愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。専門は中国近現代史、日中戦争史など。『通州事件 日中戦争泥沼化への道』『冀東政権と日中関係』などの著作がある。