歌舞伎「片岡仁左衛門」一家殺し「凶行の原因は食の恨みから」 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/5〈サンデー毎日〉
1946(昭和21)年 深刻な食糧難
ラジオから「♪カムカムエヴリバディ?」の節が流れ始めた1946(昭和21)年、終戦後の日本に吹いた新風は半面、庶民の骨身に応える冷たさがあった。極端なインフレと深刻な食糧難の中、一見世俗とは別世界と映りがちな梨園で血生臭い事件が起きていた。
本誌こと『サンデー毎日』の創刊から半世紀の歩みを記した『週刊誌五十年』に昭和20年代からの定価が載っている。1946(昭和21)年1月は35銭、前年8月の終戦時点から5銭の値上げだ。だが早くも2月には60銭、9月に1円の大台に乗り、47年新春は3円と1年間で10倍になった。
46年の本誌2月10日号では「十円の値打」と題し、東京の闇市で10円払えば何が買えるかを特集した。卵2個、海苔(のり)1帖(じょう)、イワシ丸干し7匹……。海苔2枚で週刊誌が3冊買える値段に記事は「ベラ棒」と怒る一方、闇市を〈一面必要欠くべからざるもの〉と書く。配給制度が破綻する中、闇市は後ろ暗さを脱ぎ捨て、「人民市場」と呼ばれた。
政府は同じ頃、インフレ抑制の目的で「新円切り替え」を実施。1世帯の生活費を月500円とする「五百円生活」が強いられた。〈最低生活はどうにかできたが、いままで余裕のあった階級の人々の生活はひどく窮屈に〉なった(前掲『週刊誌五十年』)。その窮状を象徴する事件が同年3月16日に起きた、歌舞伎の十二代目片岡仁左衛門(当時63歳)一家5人殺しである。逮捕されたのは、殺された子守の女性の実兄で、仁左衛門宅に同居していた22歳の男だ。当時の新聞記事によると、男が語った犯行の動機は食事での「差別待遇」だった。仁左衛門夫婦が三食を食べているのに、男は昼抜きの二食。しかも一食は粥(かゆ)だった。つまみ食いをして夫人に叱られたり、配給の酒やたばこを取り上げられ、日ごろから反感を募らせていたという。
当時でも〝ありえない〟事件
本誌同年4月14日号の記事の見出しには〈〝仁左殺し〟顛末(てんまつ)記 凶行の原因は食の恨みから〉とある。今時分、「食の恨み」と大量殺人を一直線に結ぶことにはためらいが残る。同7日号で本誌次長の千歳雄吉はこう書いた。〈殺された人物が梨園(りえん)の大立者であり、社会的に知名な人であったというばかりでなく(中略)、加害者の殺害動機が食糧不足にあったという点で、これはいままでに見られない社会問題を提起した〉
当時でも〝ありえない〟事件であり、そこに時代の狂気を嗅ぎ取っている。また千歳は男が粗末な二食しか与えられなかったことに注目する。〈仁左衛門の家庭では、配給量の食糧でぎりぎりの食事をしていたということになる。(中略)現在の配給食では、もし正確に計量生活をするならどんな家庭でも、この仁左一家の食事より余計には食べられぬというのが本当であろう。そこに問題がある〉
本誌記事によると、片岡家は「新円生活」で切迫し、「闇買い」もしなくなった。さらに仁左衛門が〈警察に応急米を貰いにゆくのを承知しなかった〉(4月14日号)ため、男の心が急速にこじれていったという。
食糧不足でより困窮したのは、片岡家のように同居人を多く住まわせていた家だ。ちまたでも弟が兄の家から追い出されたり、学生が下宿を断られたりした。前出の千歳は〈人情が紙より薄いと道学者は嘆くだろうけれど、そんな人情などではどうにもならぬほど現在の食糧事情は深刻になっている〉と述べる。実際、くだんの男は事件直前の3月15日夜、仁左衛門から強く叱責され、「出て行け」と言い渡されている。
新円切り替えが行われた同年2月は折しも、NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のモチーフの一つ、ラジオ「英語会話」の放送開始と重なる。新しい明日への期待に胸を躍らせる一方、利己的でないと今日を生き抜けない時代。「カムカム」とばかりも言っていられなかった、と書くのは筆の滑り過ぎだろう。
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