特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/3 鳥潟博士令嬢の結婚解消 大作家も〝参戦〟した醜聞騒動〈サンデー毎日〉
1932(昭和7)年 90年前の「男女観」
新婦の父は高名な京大医学部教授、新郎はその愛弟子の医師。今でいう〝セレブ婚〟が新婚初夜に瓦解した。原因は新郎の「過去」だった。内々で収められるはずの話が世論を巻き込むスキャンダルに発展した裏には、当時の揺れ動く「男女観」「結婚観」があった。
「N氏は童貞だと信じていられたのですか?」
「絶対に童貞だと信じていたわけでもありません。けれども性病にかかっていると聞いては堪えられませんでした」
そんなあからさまなやりとりが、本誌『サンデー毎日』1932(昭和7)年12月11日号に載っている。問題発覚後、渦中の元新婦S子さんを記者が京都市内の自宅で直撃した場面だ。
S子さんは当時23歳。父の鳥潟(とりかた)隆三博士は京大医学部外科教授で、外用薬「コクチゲン」(鳥潟軟膏(なんこう))の発明などで世界に名をはせていた。その鳥潟氏を師とする同医学部の医師N氏は28歳。10月30日、京都の平安神宮で挙式した二人は京都ホテルでの披露宴を終え、新婚旅行先の奈良ホテルに宿泊した。だがN氏が約3年前に性病の淋病にかかっていたと告白したため、S子さんは初夜の営みを拒否。そのまま破約となった。いわゆる「鳥潟博士令嬢の結婚解消問題」である。
本誌は鳥潟氏が破約に際してN氏側に宛てた「覚書」を掲載した。父親が記す当夜の様子は生々しい。
〈結婚の実を挙ぐるに際し、コンドームを使用することをS子に告げたるをもって、S子は不安の念に駆られ、父隆三に相談せざるべからずといいたるため、H(N氏の名)はここにはじめて淋疾に罹(かか)りおることをS子に告白し……〉。結婚まで純潔を守れなかっただけでなく、性病を得た事実を隠そうとしたN氏を許せなかった、というわけだ。
一方、N氏側も黙っていない。実兄が発表した「声明」によると、淋病は完治し感染の恐れはなかった。それでもN氏は「万全の処置」を講じた上で「新妻の前にこれを懺悔(ざんげ)」した。だが誠意がまったく届かなかったと不満をあらわにする。
なぜバトルロイヤルに発展したか
〈その当夜、弟がもし不幸にも鳴かざる雉(きじ)として新婚生活の第一線に入っていたならば、きっと射たれることはなかったでしょう〉
正直者がばかを見る、と言わんばかりの口調だ。
もっとも、当事者にはいかに深刻な話でも、もとより私人同士のトラブルだ。メディアを舞台に両家入り乱れてのバトルロイヤルに発展したのはなぜか。本誌創刊からの歩みをまとめた『週刊誌五十年』(73年、毎日新聞社刊)で、著者の野村尚吾はこう書く。〈泣き寝入りしない女性の勇気が、なんといっても新しい女の態度として、その結婚観がジャーナリスチックな関心を呼んだためである〉
事実、記事に談話を寄せた歌人の柳原燁子(やなぎわらあきこ)(白蓮(びゃくれん))はS子さんが旧来の女性観に一石を投じたとし、〈めざめ行く近代女性のいい傾向を物語る〉と評価した。
大正デモクラシーから続く女性の権利拡大を求める風潮と、斜に構える男性の視線が背景にあったのは確かだろう。その証拠に本誌は記事の見出しに「裁かるる男性 これは男性への挑戦であるか?」とうたい、問題を〝男女対立〟の構図で捉えようとしている。評論家の長谷川如是閑(にょぜかん)が〈勇敢に男子の要求を拒(しりぞ)けて、女性の誇りを護ったことは全く感服に価する〉と述べれば、作家の直木三十五が〈これからの女はこの男性の汚さや悪を克服して自分達の生きる途を切り拓いてゆかねばならない〉として、S子さんのナイーブさを一喝するといった具合だ。
谷崎潤一郎、武者小路実篤らも加わり百家争鳴の観がある中、大阪府女子専門学校(現大阪府立大)の生徒が寄せた意見にふと目が留まる。〈現代社会において女性の地位が真に認められていない証拠である。もしこれが男女反対になっていたとしたら、誰も不思議がる者はない〉
無論、90年前の言葉である。
※記事の引用は現代仮名遣い・新字体で表記、必要に応じて読点などを一部補足。「N氏」「S子」は原文では実名