特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/2 芥川龍之介の「遺書」掲載「何かただぼんやりした不安」〈サンデー毎日〉
1927(昭和2)年7月24日 芥川「自死」
日本文学史上、最も有名な作家の一人、芥川龍之介が自死したのは1927(昭和2)年。恐慌を経て軍国主義へと国が傾く目前の時期だ。折しも2022年は芥川生誕130年の節目に当たる。遺書に残した「ぼんやりした不安」という言葉は今、人々にどう響くのか。
東京の山の手と下町を分けるのは一筋の崖である。武蔵野台地を成す「上野台地」の東端は急峻(きゅうしゅん)に下り、その底に沿ってJR山手線が田端、日暮里、上野と弧を描いて敷かれている。田端駅北口から本駒込方面へ抜ける切り通しの深さに地形の高低差が実感できる。
東京都北区田端が北豊島郡滝野川町の字だった大正期、多くの作家、詩人らが住み、「文士村」の趣を漂わせた一帯。名残をとどめないその高台の一画にいびつな四角形の更地がある。
〈田端の芥川龍之介君の家の二階には、梯子段が二つついてゐた様である。高みになつた所に建つた屋敷構への大きな家であつたが、二階は一間しかなかつたのではないかと思ふ。(中略)そこが芥川君の書斎で、又よく客を通した〉(河出文庫『芥川龍之介雑記帖』)
夏目漱石を介して芥川と知り合い、深交した文筆家の内田百閒(ひゃっけん)は早世した友の面影を生涯にわたりつづった。内田のいう「大きな家」があったのがそこ、すなわち芥川の「旧居跡」である。北区は日本初となる芥川の記念館建設のため跡地の一部を取得。2022年度中の開館を目指していたが、コロナ禍のあおりで計画は延期されている。
現地に往時をしのぶ材料はないが、近くの「田端文士村記念館」で30分の1サイズに復元した家の模型と当時の間取りが見られる。文士らが談論風発した書斎の風景を、味気ない更地の中空に浮かばせてみる手がかりになるかもしれない。
同館では企画展「愛とサヨナラの物語~芥川龍之介・田端文士たちの一期一会~」が開催中だ(1月23日まで)。初公開資料などに交じり芥川が3人の息子に宛てた遺書「わが子等に。」の展示(複製)もある。愛用の原稿用紙につづられた1行目〈一人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず〉という一文は、「死に至る」の文言が後から挿入されたことが目を引く。
死と生きざまのスキャンダル性
芥川が薬物自殺をしたのは1927年7月24日。本誌7月31日号は〈誰もまだ自殺者自身の心裡(り)をありのままに書いたものはない〉と始まる友人宛ての遺書を掲載した。「どうすれば苦しまずに死ぬか」として、首つりや飛び降り、ピストルなどさまざまな手段を比べてみせるさまは異色だ。〈溺死もまた水泳の出来る僕には出来るはずがない〉と書くあたり、筆致は軽やかでさえある。
遺書には死を選ぶ理由として〈何かただぼんやりした不安である〉という有名な言葉がある。「不安」のありかは定かでない。当時の編集長・千葉亀雄が同号に載せた追悼文で〈時代が呼びかける時代の悩みが、氏の死のどこかの一隅に宿って居る〉と書いている。
死後百年を間近にし、芥川人気は衰えを知らない。新しい研究成果が産生され、国際学会も立ち上げられている。正体を見せない時代への不安が通底する限り、死の謎をも含んだ生きざまのスキャンダル性はなお新鮮なのだろう。
同年9月発行の本誌「秋季特別号」は〈恐らく氏が死の直前五六日の頃に執筆したもの〉として、芥川の「遺稿」を載せている。「機関車を見ながら」と題された1ページに収まる短文は、行き先を知らず、しかし線路を外れることを許されない機関車に人の宿命を寓(ぐう)している。
〈この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人であろう。我々は(中略)自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つ所におのずから自由を失っている〉 芥川は「高い土手の上」に立ち、眼下に機関車が走るのを子どもたちと一緒に眺めながらそんなことを思った、と書いている。