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特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/1 「有島武郎の心中事件」と「朝鮮人虐殺」の深層〈サンデー毎日〉

「サンデー毎日1月2・9日合併号」
「サンデー毎日1月2・9日合併号」

 本誌創刊1922(大正11)年4月 「週刊誌」はまったく新しいメディアだった!

 時に政権を揺るがし、時に取り澄ました著名人の虚飾を?ぐ―大正デモクラシーの隆盛とともに産声を上げた雑誌ジャーナリズム。その旗手として1922(大正11)年に創刊した『サンデー毎日』が伴走してきたこの国の1世紀を「スキャンダル」で読み解く。

 1923(大正12)年 創刊1年後に関東大震災

 1923(大正12)年9月1日、神奈川県の相模湾周辺を震源域として発生した大地震は、大阪にも震度4の揺れを与えた。大阪毎日新聞社(大毎)では、編集局の天井から下がる三十数個の大電灯が一斉に左右に振れ、それと同時に、毎日新聞社の前身をともにする東京日日新聞社(東日)とをつなぐ17本の直通電話回線がすべて途絶えた。

 無線通信はもちろん、上海やグアムを経由した海底電線による連絡も試みられたが、失敗した。正午の発生から半日たった真夜中になって「本所、深川方面は全滅」「宮城(きゅうじょう)(皇居)が燃えている」といった首都の惨状が断片的に伝わってきたが、「関東大震災」の実像はほぼつかめずにいた。

〈無線電波が瞬間に世界を一周する現代の文明を背景としながら、僅か百三十里を隔てたのみの東京が、死んだように沈黙している〉

 そんな歯がみする思いが、急ごしらえで発行された『サンデー毎日』9月9日号に地震発生から24時間のドキュメントとして記されている(引用は現代仮名遣い・新字体で表記)。同じ記事では、混乱と焦燥を極める大毎本社をよそに真向かいの茶屋で酔客が深夜まで遊興していたと書き、「ずいぶん無思慮な人だ」と憤慨してみせてもいる。大災害の前で「現代の文明」がいかに非力であり、情報の隔絶が想像力を損なうか、100年後に生きる私たちも身をもって知っている。

 前年4月に創刊した本誌こと『サンデー毎日』は当時、独立した「編集部」はなく大毎学芸部が業務を担っていた。従って本拠は大阪だった。地震翌日には若手部員の前田三男(後に41年、編集長就任)が水上飛行機で夜の品川沖にたどり着く命がけの取材を敢行している。

 一方、その数日後の朝、浴衣一枚の男が編集室の柱にもたれて眠っているのを出勤してきた部員が見とがめた。東京から逃げてきたという男は「何かサンデーに書かせてくれ。ぼくは植村宗一だ」と言った(野村尚吾『週刊誌五十年』毎日新聞社)。この男こそ「直木賞」の由来である小説家・直木三十五(さんじゅうご)だった。震災に遭って大阪に逃れてきた文士、著名人は多く、本誌は彼らの体験記を積極的に掲載し、生々しい被災の実態を伝えようとしている。

 直木は当時の筆名「直木三十三」を用い、9月30日号に「私の耳―震災雑爼(ざっそ)―」という一文を寄稿した。そこで直木は震災をどう考えるかと自問し、「天罰」だと言うほかはないと吐き捨てる。その露骨さに一瞬たじろぐが、大正ロマンと呼ばれる大衆文化が隆盛し、激変していく時代の風潮を「享楽的」として、天の鉄槌(てっつい)が下ったと見なす考え方は珍しくなかった。震災前、東京の一流ホテルや宴会場が華美を競っていた様子などを細々と並べた後、直木はこう書いている。

〈有島氏を待たずともいかに多くの夫人と称さるる人々がよく無いことをしていたか?処女がいかに胸を広げ、いかにコケチッシュな化粧をして銀座を横行したか?もし私が神なら「よしよし一つ眼を醒まさせてやろう」と地の神へ合図の手を挙げたにちがい無い〉

 大正デモクラシーの一端として、女性の社会進出の機運が高じていた頃だ。奔放な女性の行動を苦々しく眺めていた人々に、この論調は一定、歓迎されたふしがある。

 「有島心中」に3278編の投稿

 ところで、ここでいう「有島氏」とは、『婦人公論』記者の波多野秋子と心中事件を起こした作家の有島武郎(たけお)のことだ。同年7月、軽井沢にある有島の別荘で死後1カ月が経過した二人が発見された。人格者として知られ、女性から熱烈に支持された人気作家と、青山女学院を出た才媛で、業界でも名うての敏腕美人記者との「情死」は世間を驚かすのに十分だが、それだけではなかった。妻に先立たれていた有島に対し、波多野には夫がいた。つまり不倫の末の出来事だった。直木が「よく無いこと」とあげつらったゆえんだ。

 有島の心中事件は、創刊間もない本誌が初めて本格的に扱ったスキャンダルだった。7月15日号から2週連続で著名人が続々と登場し、二人の人となりや情死に至った心のありかを語っている。作家の小川未明は、死へ逃れずになぜもっと真剣に愛し合わなかったかと問い、島崎藤村は有島の潔癖性とセンチメンタリズムを指摘した。また、波多野と交流があった作曲家の山田耕筰は「秋子さんの美しさと聡明さ」は、その歌声で舟乗りを誘い、波にのみ込む「ローレライ」のようだと述べている。

 さらに本誌は「有島武郎氏の死について」の感想文を募集した。たちまち3278編が読者から届き、7月22日号と29日号に入選作が掲載された。3児を後に残した有島を「残酷な父」と責め、波多野を「魔性の女」となじる声、情死の2文字が最後を汚したとして「一人で死んで下さらなかったかと残念」に思うファンの嘆き、「氏は美しい詩を死によって書いたのだ」という達観……非難から共感まで感想はさまざまだ。

 有島作品を読んだことがない人たちを含めて、これだけ多くの声が一斉に上がる状況が、今時の「ネット炎上」と似て見えるのは、きっと錯視だろう。ただ、スマホ時代のSNSが情報の中身や伝わり方を激変させたのだとすれば、「週刊誌」もまた過去にはない全く新しいメディアだった。

〈前後に創刊された有名な雑誌には、『改造』(大正八年)、『新青年』(大正九年)、『文藝春秋』(大正十二年)、『キング』(大正十四年)などがあり、続いて大正十五年からの「円本時代」の活況を生むようになる。二つの週刊誌の誕生も、それと無縁ではなかった〉(前掲『週刊誌五十年』)

 第一次世界大戦後の不景気風が吹く中、出版界は新機軸によって新たに分厚な読者層を作り出していった。スキャンダル報道を真骨頂とする週刊誌は、その出自を情報の大衆化という時代の画期に持つわけだ。ちなみに「二つの週刊誌」とは本誌と、同年に創刊した『週刊朝日』である。

 ここで話を関東大震災に戻す。直木三十五の筆致が虚無的なのは、焼死体にでさえ「憐愍(れんびん)の情を起こさなかった」と書くほど、ありとあらゆるものを見たからだ。「関東震災号」と題した9月16日号、早くも「帝都復興号」を名乗る同23日号を通読すると、家の下敷きになって死んだ妻を置いて任務に駆け付けた軍人の〝美談〟や、炊き出しの握り飯一つを被災者同士で奪い合う光景などさまざまな人間模様が描かれている。

 報じられない〝最大規模の醜聞〟

 だが、膨大な文字数を費やしてなお書かれていない「スキャンダル」がある。

〈大騒ぎになった流言飛語による不幸な朝鮮人虐殺事件については、当局からの通達もあってか、何も報じられていない〉(同書)

 流言飛語、すなわち「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」という作り話を信じた自警団らによって数千人が殺害された。近代史上、最大規模の醜聞には違いない。

 警視庁は9月3日、「風説は虚伝にわたる事極めて多く」とし、「朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる」ようにと警告を発した。ただ、事件をにおわせる記述はある。英文学者の馬場孤蝶が「帝都復興号」に寄せた体験記にこうある。〈いろいろな風説が広がりだした。(中略)街はこの蜚語(ひご)らしい噂のために、まるで鼎(かなえ)の湧くように騒ぎ立って来て、人々は血眼で右往左往しだした〉

 別の史料によると、馬場はいきり立つ群衆に対し、朝鮮人がそんなことをするはずはないと弁護する発言をしたが、逆に取り囲まれて危ない目に遭ったとされる。そのくだりは体験記には書かれていない。

 先述したように、身をていして大阪から被災地に飛んだ前田学芸部員は「関東震災号」に渾身(こんしん)のルポを書いている。やはり朝鮮人虐殺の記述はない。〈見えないものの多くを見、また見えるものの多くを見損なった〉とある。彼が何を「見た」のかは分からない。

 廃墟の中で出合った「人情美」の称揚、新帝都建設への気概で貫かれたルポは、〈大正十二年九月一日を忘れるなかれ、その日死の都、東京には神の国への道が開かれたのだ〉という気負った文言で締めくくられている。

 12月21日発売の「サンデー毎日1月2日・9日合併号」には、他にも「朝ドラ『カムカムエヴリバディ』がひもとく『ラジオ英語講座』事始め」「年末ワイド お騒がせの面々は今 福原愛、河村たかし、岡田晴恵…」などの記事も掲載しています。

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