「2・26事件」の憂鬱な時代 帝都を震わせた「阿部定事件」 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/6〈サンデー毎日〉
1936(昭和11)年 妖婦の猟奇殺人
妖婦、邪淫蛇、吸血の女郎蜘蛛……修辞の限りを尽くしてもなお足らぬ、といった感がある。2・26事件後の戒厳令下、帝都を震わせた「阿部定事件」を報じる記事に躍る活字だ。目を覆う猟奇殺人と騒がれながら、張本人は一躍、時代の〝主役〟へ担ぎ上げられた。
「夜会巻き」という髪形がある。明治の鹿鳴館時代、ドレス向きのスタイルとして上流層に広まり、和装にも合うことから戦前まで流行した。その髪形を文字通り、名に冠された女がいた。
〈今や帝都の目は、殺害した情夫の局所とシャツ、猿股等を懐に、ほのかな体臭をなつかしみながら地に潜る夜会巻さだの姿に集中されている〉
本誌『サンデー毎日』1936(昭和11)年5月31日号はそう伝える。同18日、東京・尾久の待合茶屋に同宿していた男性の首を、愛人の女が腰ひもで絞めて殺害し、逃走した。これだけなら大事件ではないが、現場に残された体は陰部が刃物で切り取られ、左腕には同じく刃物で「定」の一字が刻まれていた。
大島渚監督の問題作「愛のコリーダ」(76年公開)のモチーフとしても知られる「阿部定事件」である。記事は姿を消した「夜会巻さだ」こと阿部定(当時30歳)の行方を必死で追う警察の捜査状況に加え、定の生い立ちを詳報している。
東京・神田で畳職人の家に生まれた定は早熟で勝ち気な性格だった。〈十五の時には(芸事で)名取りの腕前となったが一面立派なズベ少女で、そのころ畳屋のさだちゃんといえば〝あれか……〟と後指を指(さ)されるほどであった〉という。16歳で花柳界に入り、地方を渡り歩くうちに娼妓(しようぎ)へ転じた。〈芝居気たっぷりな彼女は男を操るコツをすっかり覚え?(うそ)でかためた身の上話も堂に入ったもので(中略)彼女、夜会巻さだの半生は、一巻の愛欲図絵以外の何物でもなかった〉
坂口安吾は「純愛一途」と断言
講談の釈台をたたく扇子の音が聞こえてきそうだ。遺体を傷つけた一見猟奇的な行動に加え、人目を引く容貌と陰のある境遇――そこから編まれた「妖婦」の物語に、定が好んでした夜会巻きの派手やかさが見事にはまったのだろう。
ところで、本誌同号は締め切りの都合か、定の逮捕と犯行の自白を報じる記事を併載している。男性は妻子持ちで〝好色漢〟だった。記事は見出しに「愛するが故の加虐」とうたい、〈このままでは、必ず別れなければならない。このことのみが苦労の種、果ては悲しみの種となり、いっそ殺して永劫(えいごう)に自分のものにしようと考えるようになった〉と定の心中を描いている。
世間を仰天させた遺体の損壊も定には「愛」の延長だった。起訴後、予審判事の調べに〈其儘(そのまま)にして置けば湯棺(ママ)でもする時お内儀さんが触られるに違ひないから誰にも触らせたくない〉と述べた(『阿部定 昭和十一年の女』田畑書店)。理屈は通っているが、どこか調子外れでもある。
そんな「猟奇殺人」の正体が見えてくるにつれ、同情的な世論や〝お定人気〟さえ沸いた。「特ダネ40年史」という特集を組んだ本誌61(昭和36)年4月2日号で、事件当時の担当記者がこう読み解いている。
〈というのはその三カ月前、雪の暁に青年将校が決起した二・二六事件が起こり、戒厳令のあと、世相はなんとなく重苦しい灰色に塗りつぶされていたからだ。お定事件はこの憂鬱な空気を一掃した観があった〉
迫りくる軍靴の響きと、死を賭した愛欲劇を時代の表裏に見るのは、これに限らない。41年に刑期を終えて出所した定と戦後に対談した作家の坂口安吾は、「阿部定さんの印象」という文章の中で、定の行為に犯罪的要素はない、純愛一途(いちず)で「むしろ可憐(かれん)」と断言。その上で〈まつたく当時は、お定さんの事件でもなければやりきれないやうな、圧(お)しつぶされたファッショ入門時代であつた〉と書いた。
人々がより巨大な蜘蛛(くも)の巣に運命を委ねる手前のことだ。