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特別寄稿・「価値」を入れ替える政治に転換せよ 「維新的なものの勝利」の時代に野党に求められること=白井聡〈サンデー毎日〉

白井聡氏
白井聡氏

「維新的なもの」が席巻する政治状況とは何か。「それは、ポスト・トゥルース時代のプロパガンダの勝利だ」と喝破する闘う政治学者は、「フェイク」に対して「事実」を対置するのではなく、「価値」の転換をもたらす政治が必要だと言う。野党再生のための必読論考!

 直近の各社世論調査によれば、野党第一党の座を占める党は、立憲民主党から日本維新の会に移り変わりつつある。このままでは本年7月に行われる参議院選挙で立憲民主党はさらなる大敗を喫して、同党は解党の過程へと突入するであろう。

 いま明らかになってきたのは、立憲民主党の総選挙敗北が意味するのは、単に枝野執行部の敗北(また同党の一歩後退)などという生易しいものではない、ということだ。それは党そのものの解体を導くような敗北であり、ひいては同党が代表してきた現代日本社会におけるリベラルな勢力への致命的なダメージである。

 というのは、昨秋の総選挙――その結果は自公政権を、コロナ敗戦を招いた「2012年体制」を肯定した――を経て、日本社会の「空気」には変化が起きている。その変化は、以前から始まっていたが、総選挙の結果を以(も)って加速した。それは立憲民主党に代わって維新の会を自民党に次ぐ勢力へと押し上げるような何かである。

 ポスト・トゥルースの本格化

 進行しつつあるものは、「ポスト・トゥルース」の政治の本格化である。ポスト・トゥルースとは、簡潔に言えば、「客観的な事実よりも感情や個人的な信条への訴求が世論形成に強い影響力を持ってしまう状況」を指す。この概念は主に欧米で数年前から政治分析のキーとなっており、例えば、ドナルド・トランプが大統領選の際に数々のデマ、「ヒラリー・クリントン支持者が子供たちを監禁している」といったデマの流布を駆使して勝利をたぐり寄せたことや、英国のEU離脱賛否の国民投票で飛び交ったプロパガンダにおいて典型的に現れたと言われる。かかる状況を生んだものとして、インターネット、SNS、動画サイト等の新しいメディア環境がしばしば挙げられるが、近年ではそれらのニューメディアにおける情報操作が高度化し、諸国の諜報(ちょうほう)機関、そして政党がIT企業や広告会社等と提携しながら関与しているのではないか、と指摘されている。

 もちろん、日本も世界各地で見られるこの現象と無縁ではそもそもなかった。首相が「桜を見る会」をめぐるものだけで国会で118回もの嘘をついたことは有名だが、2012年から始まった「体制」の原理そのものが「フェイク」にほかならない。「アベノミクスの三本の矢で日本経済は復活した」「福島原発の事故はアンダーコントロール」といった明々白々の嘘がまかり通るのを、われわれは繰り返し見せつけられた。

 いま指摘されるべきは、総選挙後の、このポスト・トゥルース的状況の新たな段階への突入ではないだろうか。まず、「野党共闘は失敗」というメディア・キャンペーンが総選挙直後から始まった。この「失敗説」は、足し算と引き算さえできれば、間違いであることは明瞭なのだが、それは「既成事実」と化し立憲民主党の執行部をもとらえている。

 そして、維新の会こそまさに、ポスト・トゥルース的状況から生まれ、それを最大限に利用し、かつ自らこの状況を加速させることを以って主要戦術とし、党勢の拡大に成功している政党ではないのか。総選挙が終わるや否や、同党は早速いかがわしいプロパガンダの砲撃を始めた。比例東京ブロックで当選した同党の小野泰輔が文書通信交通滞在費(文通費)の問題を提起すると、吉村洋文大阪府知事をはじめとする維新の重鎮級の人物がこぞって同調し、「既成政党は私腹を肥やしている。身を切る改革を実行できるのは維新の会だけ」というイメージを振りまいた。その吉村は、2015年に衆議院議員を辞して大阪市長選に出馬する際に、わざわざ10月1日を選んで辞職し、10月分の文通費をせしめておきながら、である。

 テレビが育てたモンスター

 次いで現在巷間(こうかん)の話題となっているのが、菅直人元首相の橋下徹をヒトラーになぞらえた発言と、それに対する維新の会関係者の猛反発である。本来、橋下は維新の会の創始者であるというだけで、現在の同党とは建前上無関係であるはずであり、したがって、維新の会の面々が騒ぐのはいささか筋違いであるのだが、この点は措(お)く。「政治家をヒトラーになぞらえるのはヘイトスピーチの一種であり国際的に許されるものではない」というのが維新の会の主張だが、これほどの真っ赤な?も珍しい。欧米では、政敵をヒトラーになぞらえるのはありふれた行為にすぎない。記憶に新しいところでは、オバマ大統領はティーパーティー系の人々から「ヒトラーのような国家主義者」と批判され、そのオバマの政策を片っ端から否定したトランプ大統領もまたリベラル派から「ヒトラーのごとき煽動(せんどう)家」として批判されていた。つまり、「ヒトラーのようだ」という言い回しはインフレ気味であって、「ヒトラーを安易に持ち出し過ぎている」という批判すら起こっているのが現実である。

 橋下徹についてあるメディア人は「テレビが育てたモンスター」と評したそうだが、総選挙に先立つコロナ禍を通じて、吉村洋文も在阪テレビ局に育てられてひとかどのモンスターへと成長した。というのは、昨秋の衆院選での維新の会の躍進には、感染者が増加し蔓延防止措置や緊急事態宣言が出る度に、吉村府知事がワイドショーをはじめとするテレビ番組に局をはしごして出続けたことが大きく貢献したと思われるからだ。吉村は、しばしば疲労感と悲壮感を湛(たた)えた表情で、感染拡大阻止のため行動規制や営業規制に協力してくれるようあくまで低姿勢で視聴者に呼び掛けた。

 しかし、そのような「感じのよさ」は何ほどのものでもない。大阪府は新型コロナ死亡率において全国最悪の数字をマークしてしまったのだから。そしてそれは、2008年に橋下が大阪府知事に選出されて以来「無駄を徹底的に削る」と称して進められてきた維新の会による大阪府・市の行政改革の結果にほかならない。ところが、吉村のテレビ出演の際、司会者やコメンテーターに、大阪の死亡率の高さについて知事に突っ込む者は誰もなく、すべての番組は吉村応援団と化した。だから、大阪がコロナ禍による死亡率日本一という事実すら、地元で広くは知られていない。筆者の住む京都など、大阪以外の近畿圏で在阪準キー局の電波を受けている所で「知事が頑張っている大阪が羨ましい」との声が聞かれるに至っては、大宅壮一の言ったテレビによる「一億総白痴化」の証明を見せつけられる思いがする。

 メディアについて付け加えれば、NHKと映画監督の河瀬直美が起こした「東京五輪記録映画やらせ問題」を挙げてもよい。日本のテレビ局が事実への関心を失って久しいが、ついには最も権威あるとされてきた放送局が、フェイク映像をドキュメンタリーと称して流し始めた。こうして連日のように新手の嘘が次から次に飛び出してくる。総選挙以前では、嘘の大本の震源地は安倍晋三とその周辺に在ったように見えたが、総選挙を経たいま、日本社会は至る所からいくらでも嘘が生産され、嘘に覆われるようになったかに見える。そしてその主役を、維新の会は演じている。

 民主主義の全面化の結果として……

 こうしたポスト・トゥルースの状況を「民主主義の危機」や「民主主義の崩壊」と論評するのは常套(じょうとう)句と化している。だがそれは正しいのだろうか。民主主義が衰退したためにかかる事態がもたらされたのだろうか。

 佐伯啓思は、政治のポスト・トゥルース化について、それは民主主義の後退ではなく、その全面化の帰結であると論じている。すなわち、多数派の獲得を基礎原理とする民主政治は、「真実」や「事実」を基準とする政治ではありえず、イメージ操作によって大衆の支持を得ることで権力を追求する政治であり、したがって「フェイク」や「ポピュリズム」は民主政治の本質である、と。さらに、このことは民主制の起源とされる古代ギリシャにおいてすでに認識されていた。真理の探究ではなくイメージ操作を生業とするソフィストは民主制においてこそ活躍したのであり、ソクラテスはソフィストを批判して「真理の探究=フィロソフィ=愛・知」を唱えたために殺されたのであった(『近代の虚妄』、第1章)。

 民主主義の本質がイメージ操作にあるのだとすれば、政治のポスト・トゥルース化は民主主義の衰退がもたらしたものではなく、逆に、民主主義がそれ自身の原理にのみ従って展開した結果である、ということになる。すべてがイメージに懸かっている以上、「フェイク」に対して「事実」を対置したところでほとんど効果は望めない。すでにわれわれは安倍政権の時代から、安倍が次から次へと嘘を重ねるために検証が追い付かないという事態に遭遇した。嘘をつくのは一瞬だが、嘘の証明には時間がかかる。

 かつ、佐伯が指摘している重要な事柄は、政治闘争がイメージの闘争となるとき、闘争における決定的要因は「事実」ではなく「価値」なのだ、ということだ。人々が「真理」ではなく「真理らしく見える」ことを求めているとすれば、何が真理らしく見えるかは見る人の主観的価値観に依存する。ゆえに、もっぱら問題になるのは、何が事実であるかではなく、事実そのもの(と認識されるもの)が各人の持つ価値観によって決まる以上、何を望ましく思い、何を望ましくないと思うかという価値観なのである。「事実」は、「価値」に従って取捨選択されるにすぎない。してみれば、IT化がもたらした危険として指摘されるエコーチェンバー現象も少しも新しくない。それは、IT技術によってもたらされたというよりも、より正確には、それによって増幅された民主制の本質から生ずるものと理解されよう。そしてその時、民主制におけるリーダーの条件は、多数者の価値観に合致したもっともらしいこと(この場合、有効に「見える」政策であり、真に有効であるかはどうでもよい)を上手に演出する手腕である。

 異質な人々に注入する言葉

 われわれはきわめて深刻な現実を指摘せざるを得ない。「維新的なもの」とは、「テレビが育てたモンスター」であるとしても、その怪物の能力とは、新しい価値観を提示したことでは全くなく、現代日本の多数者=大衆の価値観に迎合し、大衆にそれを自己肯定させる力であった。「公務員ばかりが良い目を見て税金を懐に入れている」とか、「教育の荒廃は教員がだらけているのが原因であり、校長を民間から起用すれば根性が叩(たた)き直される」とか、果ては「イソジンがコロナに効く」まで、これらすべての馬鹿げた命題は、多数者の価値観と合致していたのである。政敵を口汚く罵(ののし)り、空騒ぎに明け暮れ、関係者が次々と不祥事を起こす彼らの振る舞いは、大衆の「価値」によって肯定されているからこそ成り立つ。ここにおいて、主は多数者の価値観であり、「モンスター」は従にすぎない。

 また、大阪の状況は特殊であって全国化はしない一過性のものだとする楽観的観測は、通用しない。なぜなら、維新の会が掬(すく)い取った大阪の多数者の価値観は、現代日本全体で特殊なものではないからだ。したがって、大阪で生じた事態は今後全国化すると見るべきだ。というよりも、「維新的なもの」の噴出は、小池百合子東京都知事への圧倒的支持や都民ファーストの会のブームというかたちをとって、首都圏ではすでに起きていると見なすべきである。あるいは、野党支持層を喜ばせた横浜市長選挙における山中竹春の勝利にしても、「私はコロナの専門家」というおよそ学究の徒であれば容易に口にできないキャッチフレーズによる勝利であったことに鑑みれば、それは「立憲野党の勝利」というよりも「維新的なものの勝利」ではなかったか。そしてこうした形勢に応ずるかたちで政治家の側では、立憲民主党の低迷が続くならば、維新の会と国民民主党が接近するなかで、立民から維新―国民同盟へと鞍(くら)替えする分子がいても全く不思議ではない。

 総選挙を経ていよいよ鮮明になったポスト・トゥルースの政治状況の深刻さは、佐伯が指摘するように、それが究極的には「価値」の次元に根差すところにある。ネオリベ(新自由主義)的な社会ダーウィニズムや権威主義、ひいては排外主義といった「価値」が有力である限り、これらの「価値」に根拠を与える「事実」のみが選択的に認識され、それらの「価値」の正当性が再確認される。この認知的ループの中にいる人々に対しては、「事実」を突きつけただけでは効果はない。問題なのは、「価値」を入れ替えることなのだ。

 リベラルな価値観を明確に打ち出した立憲民主党の選挙戦敗北とその後の苦境は、同党が2017年の総選挙で獲得した「排除されて可哀想」という漠然たる心情に基づく同情票を差し引いた、今日の日本社会においてリベラルな価値観を奉ずる人口の正味を明らかにした、とも言える。ただし、枝野執行部に率いられた立憲民主党は、異なる「価値」を持つ人々の「価値」の膜を突き破って「事実」を脳髄に注入する言葉を持たなかった。そして、おそらくいまも持っていない。このことは、今日の野党に何が求められているのかを反面教師的に明らかにしているのである。

しらい・さとし

 1977年生まれ。政治学者。『永続敗戦論』で石橋湛山賞、角川財団学芸賞を受賞。他の著書に『「戦後」の墓碑銘』『国体論』『武器としての「資本論」』『主権者のいない国』など

 <サンデー毎日2月27日号(2月15日発売)>

「サンデー毎日2月27日号」表紙
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