本誌が報じた「最後の晩餐」 皇族51人の「皇籍離脱」 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/11〈サンデー毎日〉
1947(昭和22)年 宮様から人民へ
「皇族減少」が切迫感を増している。政府の有識者会議は〝旧宮家〟から養子縁組により皇族を確保する案などを示したが、議論すべき点は少なくない。75年前、「宮様から平民へ」とはやされた皇族51人の皇籍離脱がセピア調から一転、生々しい色彩を帯び始めた。
〈六時少し過ぎるころ宮内府大膳課の料理人が作った西洋料理が運ばれた。スープ、小鯛のバタ焼、牛肉のスキ焼と宴は進んで行く。(中略)最近はめったに出ない白と赤のブドウ酒が特に今日の宴のために用意され盃に注がれた〉
1947(昭和22)年10月18日、赤坂離宮「花鳥の間」で開かれた宴席の様子を、本誌『サンデー毎日』11月9日号は細かに描いている。同じ10月、闇米買いを拒否した東京地裁の山口良忠判事が栄養失調死する〝事件〟が起きていた。戦後の食糧難が国民を苦しめていた時勢を思うと別世界のようだが、記者はあえてそれを際立たせたふしがある。記事はこう始まる。
〈宮様から人民へ――まさに大きな変転である。〝敬語〟の温室の中で育ってきた人々が(中略)インフレさかまく社会へほうり出された、のである〉
10月14日、朝香(あさか)宮、賀陽(かや)宮、閑院宮など11宮家の51人が皇族の身分を離れた(皇籍離脱)。送別の印に、元〝宮様〟たちとの「最後の晩餐(ばんさん)」が催されたのだ。昭和天皇が席上、〈みんなとの長い間の縁は切っても切れないものがある。どうか気持は今まで通りのままでいてもらいたい〉という趣旨のあいさつをし、香淳皇后から一人一人にコスモスの花束が贈られたという。
もっとも記事の関心は各家の台所事情にある。皇籍離脱に伴う「一時賜金」の額を、東伏見宮(1人)150万円▽伏見宮(4人)464万8000円▽賀陽宮(8人)829万5000円……と列挙(ちなみに47年10月の本誌定価は8円)した上でこうつづる。
〈それまでの各宮家は親王が年額二十万円、親王妃十万円(中略)の生活資金を賜り、戦時中は食糧衣料をはじめ味噌、醤油等生活必需品の殆(ほとん)どを宮内省から受けていた。戸籍はなく隣組には勿論(もちろん)はいらず、すべて生活は民衆の外にあった〉
「配給の行列の中に、お迎えする」
雲上からぶら下がる皇族の境遇は庶民にとってスキャンダルめいていた。GHQの方針により宮家への歳費支出は中止。さらに皇籍離脱に先立って課せられた財産税は第一の試練だったと記事は書き、〈沢山使用していた雇人を整理しなければならなくなり、その人々の生活のために東久邇(ひがしくに)宮家や李鍵公はマーケットに魚屋や文房具店を開いた〉と、いわゆる〝宮様商売〟を興味津々に眺めている。
一方、本誌11月23日号は離脱組の一人、東久邇成子(しげこ)さんのイラストを表紙にあしらった。説明文には〈人民のニユー・フエース 配給台帳にデビユウした東久邇成子夫人〉とある。成子さんは昭和天皇の長女〝照宮(てるのみや)さま〟だ(43年に東久邇宮盛厚(もりひろ)王と結婚)。同号の名物コラム「今週の話題」で、元『毎日新聞』主筆・阿部真之助は〈このお方が一足とびに、私らの仲間になられ、手鍋をさげたり、配給の行列にも並ばれると思うと、昔風の人々には、おいとしさで胸に一杯になることだろう〉と書いた。
この一文が誘うくすぐったさは当時、多くの国民に通じる皮膚感覚だったに違いない。そして阿部はさらにこう断言する。〈身を臣籍に下して天皇と人民との、橋渡しとなり、同時に人間としての最大の幸福を味うことができる。(中略)私たちも照宮様を、私たちも配給の行列の中に、お迎えするようになって、皇室に対する親愛観が始めて本物となることを疑わない〉
「皇籍離脱」は皇室と新しい関係を作る必要性に人々が気づく契機でもあった。 折しも昨年12月、政府の有識者会議が「皇族数確保」の方策として、旧宮家から養子を迎える案を示した。〝平民から宮様へ〟で事が済むのか、議論の行方が気になる。
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