「婦人参政権亡国論」と「亭主関白亡国論」の激突! 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/9<サンデー毎日>
1971(昭和46)年 半世紀前のジェンダー論争
1964年の五輪、70年の万博と世界的イベントを成功させ、先進国に追いついたと誰もが思った頃、戦後民主主義がもたらした女性参政権の不要論が文壇から飛び出した。暴論には違いないが、「ジェンダー平等」が注目される今、論争からくみ取れるものは何か。
〈一人と一人では年中、けんかするくせに、行動するときは、群れになる。あの人がやる、この人がやるから私もやるというように。(中略)群集心理的に動きやすいタチなのである〉
住みにくさをいや増す日本社会の〝同調圧力〟の話と思われるだろうか。実はこの一文、「女性」について述べている。本誌『サンデー毎日』1971(昭和46)年2月28日号に作家・石川達三氏の「婦人参政権亡国論」が載っている。いわく、女性は基本的な性格として自主性が弱い。だから選挙になると〈タレント候補でも出てくればあの人、姿がいいわ、声がいい、ゼスチュアがいいわというように(中略)みんなが一つの方向に流れてしまう〉。
大勢になびくのは男性も同じだが、石川氏は「女がなぜ投票権を持たなければならないのか」と大まじめだ。〈女と男は、別の機能、別の職能を持つ生きものである。(中略)男と女が同じことをするのは、自由でも平等でも解放でもない〉
一方でインドのインディラ・ガンジー首相ら外国の女性指導者を例に挙げ、優れた政治的能力を持つ女性がいると認める。従ってこう提案する。〈投票権は持たなくても、被選挙権だけを持てばいいではないか〉
石川氏といえば芥川賞の第1回受賞者であり、発禁処分を受けた『生きている兵隊』をはじめ社会派小説を手がけ、69年に菊池寛賞を受賞した。その文壇重鎮をして女性から選挙権をはぎ取るべしとの〝暴論〟を吐かせたわけは何か。「亡国論」には女性への苦言が並ぶ。女房が寝坊をして亭主の朝飯を作らない、インスタント食品で家族の食事を賄う、赤ん坊の産着を縫わずにデパートで買う。妻や母親の務めを果たさずにおきながら……という心根だろう。〈家庭のなかで自分の生活を確立し、ある程度の幸福を確立し、子供たちをきちんと育てていくことが出来たら、そんなに徒党を組んで、自由だ解放だと、いいたてる必要はない〉
これに対し、翌週3月7日号で「亭主関白亡国論」を掲げ、反論したのが作家の瀬戸内晴美(寂聴)氏だ。
〈手縫いだ手編みだというのはむしろ最高の贅沢(ぜいたく)なことで(中略)主婦にとっては、望みたくても望めないことである。そんな閑(ひま)があれば、内職の毛糸を編むだろう。(中略)若い母たちは怠慢からそうする(産着を買う)のではなく、亭主の働きが悪いからそうせざるを得ないのではないか〉
50年前の論争から何が変わった?
瀬戸内氏はとりわけ、女性の「幸福」を夫婦、家族という「家庭」の中に囲い込んでしまう意見に強く異を唱える。〈私たち女は、決して幸福が個人的なものだなどとは安心していない。個人的な幸福などという幻影が、ひとたび戦争がおこった時に、どんなにもろく奪い去られたかを骨身にしみて覚えているからだ〉
男らがした戦争は果たして家庭の幸せを守ったか、そう瀬戸内氏は問うのだ。
論争は読者の反響を呼んだと見え、同14日号は会田雄次京都大教授の「ゴシップと大根の女は地方選挙だけでよい」を掲載。仕事と育児を両立していると〝偉そうに〟話す女性がいると会田氏があげつらえば、作家・田辺聖子氏が家事の重圧感に男性はまるで無知だと反論するといった具合だ(同21日号「スカタンだらけの男がなにをヌカす」)。
女性の社会参加を巡り、政治家らの差別発言が今も懲りずに繰り返されるが、見れば50年前の中身をほぼ出ていない。「男(女)は……」で始まる話がおよそ役に立たないことの証しだ。そんな政治をよそに、国政選挙の投票率は5割そこそこだ。国民の半分しか政治参加しない時代は確かに来ている。