広がる皇族の進路の選択肢 悠仁さまの興味育む教育を 社会学的皇室ウォッチング!/23=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
宮内庁は2月16日、悠仁さま(15)が筑波大附属高(東京都文京区)に入学すると発表した。前々号で述べたように、21世紀の皇嗣に特別な帝王教育は必要ないと、私は考える。「自主・自律・自由」を教育モットーとする同校で、悠仁さまの興味・関心が育(はぐく)まれることを期待したい。
将来の天皇にどのような教育が必要なのか。それを考えるためには天皇とは何かを考える必要がある。
戦後、新憲法下の天皇を押印と署名のためのロボットと位置付ける議論があった。憲法学者の稲田陽一は「天皇の役割は(中略)ロボットにすぎず、平均人以下の能力を有する者でさえ勤まり、何等(なんら)常識的判断力さえ要しない」(「天皇の世襲制と人間性」『岡山大学法経学会雑誌』19号、1957年)と断じる。
当時のリベラル派にとって、天皇から政治的権能を奪うことが重要だった。「天皇=ロボット論」は純粋法理論としてはあり得るが、天皇が意思と個性を持つ人間であることは議論の外に置かれている。
近年では逆に保守派が、皇室制度は能力主義に陥るべきではないと主張する。天皇の意義は、存在すること(皇位をつないでいくこと)にあると、保守派は主張する。地方を訪問することや、人びとと接することのように、のちに生まれた公務は二義的で、それが本来の務めを脅かしていると、現状を危惧するのである。
しかし、現在の皇室は、祈り以上の活動を行っている。そのことによって、人びとからの共感や支持を得ている現実がある。
さらに、天皇は大きな判断を下すことがある。
1945年8月、昭和天皇は、戦争を継続すべきか、ポツダム宣言を受け入れるべきか、それを熟慮し、決断した。平成の天皇(現上皇さま)は、高齢で十全の活動ができなくなることを懸念し、天皇に退位の道を開くよう側近に求めた。 今の天皇陛下も皇太子時代の2004年、「人格否定」という強い言葉を使って、雅子さまが苦しんでいる状況を社会に訴えた。
いずれも、考え、苦悩した帰結である。決断したのは、天皇(皇太子)という主体であった。天皇はロボットではないし、祈るだけの存在でもない。通常の人と同じように、選択に悩み、そのなかで判断する主体である。
重要な自主性の育成
教育の目的は、自律的に判断し、行動する主体の育成であると言っていい。教師や保護者に言われるままに従順に生きる人間を育てることではない。
自律的な判断には、どうすれば、より善く生きるかの決断も含まれる。個人的な幸福の追求が、社会全体の要求と相反することもある。眞子さま(現在は小室眞子)の結婚を「公よりも私を優先した」と批判する人が少なくなかった。しかし、「私」の優先が直ちに批判されるのはおかしい。
教育学者、宇佐美寛は、「こおりついた風力計」という道徳資料の例を挙げている。明治期、富士山頂に気象観測所をつくる必要性を訴え、山頂での夫婦での越冬でそれが可能であると証明した野中至(いたる)の物語である。
たしかに野中の行動により、のち富士山に観測所はできた。しかし、妻を危険に巻き込み、子供を親類に預けるなど犠牲にし、病気になっても下山に応じようとしなかったことは、果たして妥当だったのか。宇佐美が問題にしたのは、公に尽くしたことに共感を求めるだけの道徳教育であった(『「道徳」授業批判』明治図書、1974年)。
公を優先し、私を犠牲にすることの理不尽さの反省から、この国の戦後の歴史は始まっている。教育基本法に公共の精神を尊ぶように書き込まれ、伝統的な家族観を声高に叫ぶ政治家が多い近年の傾向は、それに逆行する。
自主性を重んじる教育を施してきた秋篠宮家だから、「眞子さまのようなわがままな女性が育った」という批判まであった。では、親や社会が求めるままの結婚をすることが「正しいこと」だったのだろうか。
筑波大附属高の教育モットーは「自主・自律・自由」である。
藤生英行学校長は、同校のホームページで「高校生時代に、強制はふさわしくなく、その精神において自由であらねばなりません」と述べている。
自由に責任が伴うのはもちろんだ。その責任について、強制ではなく、自ら判断する力を付けるのが、教育現場における自由の最大の意味だ。そのために同校では制服もない。
悠仁さまは、住まいのある赤坂御用地でトンボの生息調査をするなど生物に関心を持っている。悠仁さまが、どのような学問分野を志望することになるか、まだ分からない。しかし、それは、自分の興味と関心に基づく学問であるべきなのはもちろんである。
筑波大附属高は、医学部進学者も多い。悠仁さまが医学部に進む選択肢があってもよい。医師免許を持った天皇が出現したら画期的だ。「皇室特権を使って進学した」という誹謗中傷に対する反論にもなる。
学習院が望ましかったとなお主張する人がいるが、学習院が他校と異なった道徳教育をしているわけではない。学習院高等科は、学習院大への内部進学も多く、進路は狭くなる傾向にある。若い皇族の選択肢が広がることは、好ましいことだ。
盗用問題 迅速対応を評価
高校進学が発表されたのと同じ日、悠仁さまが書いたコンクール入選作文(「小笠原諸島を訪ねて」)に、他の文献と似た表現があったと『週刊新潮』(2月24日号)が報じた。宮内庁は「引用元を明記せず、不十分だった」とすぐに記者発表した。迅速対応のうえ非を認め、コンクールの主催者にも文献明記がなかったことを伝えた。
インターネットの書き込みには、「公正で公平な日本社会を体現するべき彼らが盗作を疑われるようなことは断じてすべきではない」などとあった。だが、皇族にも間違いはある。過剰な清廉潔白さを求めることが、皇室と人びとの関係を悪化させている。
15歳の悠仁さまに対しては教育的指導も行われたと聞く。宮内庁の対応は妥当であったと私は考える。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、『近代皇室の社会史―側室・育児・恋愛』(吉川弘文館)など