田島『拝謁記』から考える宮内庁長官の重い職責 社会学的皇室ウォッチング!/22=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
昭和20年代の宮内庁長官、田島道治(みちじ)の『昭和天皇拝謁記(はいえつき)』(岩波書店)が面白い。田島は頻繁に昭和天皇と拝謁(面会)していた。その会話内容が詳細に記録されているのだ。宮内庁長官という職務について考えさせられる逸話も多い。『拝謁記』は代替わりを取材するNHK取材班が発見した。1949~53年の間、622回にわたった拝謁の記録が、100万字以上でつづられている。昨年12月の第1巻から始まり、全7巻の予定。今月4日に第2巻が刊行されたばかりだ。
田島は48年6月、62歳のとき宮内庁長官に就任。昭和天皇は16歳年下で、まだ40代であった。当時の課題のひとつは、天皇の三女、孝宮(たかのみや)(のち鷹司和子)の結婚であった。
孝宮の縁談は、従兄(いとこ)である東本願寺の大谷光紹(こうしょう)との話があったが、側近から異論が出て頓挫していた。そのとき、旧五摂家の鷹司平通(としみち)が浮上する。
ここで田島が動く。50年1月5日。明治神宮の宮司であった平通の父信輔に直接交渉に出向く。新聞記者に気付かれないように自動車を使わず、電車で代々木駅に降り立った。『拝謁記』によれば、田島は「孝宮さまもお年頃で、降嫁の話ですが、正式な話があればお受けになりますか」と切り出した。信輔は前向きな姿勢を見せるが、最終的には本人(平通)の意思を聞いて答えたいと伝えた。
宮内庁長官が、密使となって、内親王の結婚相手の父と直接交渉する様子が手に取るように分かる。逆に言えば、密使は宮内庁長官にしか務まらない。天皇の気持ちを呈して、代理人を務められるのは宮内庁トップであるからこそだ。
長官、天皇をいさめる
50年、前年にノーベル賞を受賞した湯川秀樹を文化的に国家に貢献したとして表彰し、菊の紋章入りの銀杯を授与する話が出た。これに合わせ、原爆投下後の長崎で救護活動にあたった元長崎医科大学教授の永井隆(たかし)も同時に表彰したいという申請が内閣からきた。『拝謁記』(50年4月19日条)によると、昭和天皇は、「私は(永井のような)こんな宣伝屋はいやだが、そして湯川博士にもわるい」と難色を示し、しかし、裁可しないわけにはいかないから、長崎医大学長らも同時に表彰するよう注文を付けた。『長崎の鐘』『この子を残して』の著書が評価される永井を、昭和天皇がなぜ嫌ったのかは分からないが、天皇が「中々御興奮の様子」で話していると田島は記した。
田島は次のように天皇をいさめる。
「憲法七条の栄典授与は内閣の助言と承認によるもの故(ゆえ)(略)御異論は出来ぬと思ひます故、永井は不当と存じます事陛下の御考(おかんがえ)と全く同一でありますが、御裁可願ふより外なく、先刻御話の如(ごと)く、条件又は御希望とからませる事は如何(いかが)と存じます」
永井を表彰したくない陛下の気持ちは分かりますが、栄典授与は内閣が責任をもって行うもので、銀杯を授与する、しないの意見を天皇が言うことはできません――。田島はこう伝えたのである。天皇は納得しない様子であったが、最終的には永井への銀杯授与を裁可した。
『拝謁記』を読んでいくと、昭和天皇が、戦前と同様な意識で政治に意見を述べ、それを田島がたしなめる場面がしばしば出てくる。
一方、秩父、高松、三笠の3人の弟宮の言動の愚痴を昭和天皇は頻繁に田島に語り、戦後臣籍降下した旧宮家の元皇族についても批判的であった。妻である香淳皇后とのコミュニケーションもうまくいっているようには見えない。
他方、田島には心を許して本音を漏らし、長期間話し合ううちに信頼関係ができていったことがよく分かる。
宮内庁長官という立場は微妙だ。憲法には、国事行為につき、内閣が天皇に助言と承認を行うとある。天皇の行為には、事前の助言か事後の承認が必要であり、内閣に代わって助言と承認を与えるのが宮内庁長官の職責である。天皇のお目付け役、たしなめ役を務める。
他方、宮内庁には天皇一家の側近奉仕を司(つかさど)る侍従職という部署がある。侍従職も宮内庁長官の管轄下であるから、長官も側近奉仕を行う。縁談の密使となるのも側近として奉仕するがための職務である。
天皇のお目付け役をしながら奉仕するという二律背反の仕事をこなす宮内庁長官は重責を背負う。通常の役所であれば、部下がおおむねのことはお膳立てし、トップは最終的な判断を下せばいい。しかし、宮内庁では、天皇・皇族と直接つながっているトップが動かなければ、何事も始まらない。
縦割りを乗り越えよ
話は現代に下る。現在の長官は警察官僚出身の西村泰彦氏である。沖縄サミットの警備を指揮し、警視総監や内閣危機管理監などを務めた。天皇より四つ年長で、お目付け役と奉仕役の双方を務めるには適任の人物である。
ただ、いまの宮内庁には縦割り主義(セクショナリズム)という弊害がある。侍従職、上皇職、そして秋篠宮家のお世話を務める皇嗣職の三職の独立性が高く、宮内庁長官がそれぞれの職の内部には口をはさみづらい。
「眞子さま問題」のとき、長官がもっと早く事態に介入すべきだったとの批判があった。実態として、事態に対処していたのは、小室圭さんと眞子さんの本人たちであり、皇嗣職大夫(だいぶ)もなかなか手出しできず、長官はなおさらだった。この分、「眞子さま問題」への対処は遅れてしまった。
西村長官には、宮内庁という役所の風通しの悪さを乗り越え、天皇・皇族に直言できる胆力や機動力が求められる。
短期的な課題としては、悠仁さま進学、愛子さまの成人にあたっての記者会見、佳子さまの結婚……をはじめ皇室をどう広報していくのか、週刊誌のバッシング報道への対応などが問われる。
また、コロナ禍以降、止まっている、天皇皇后の地方訪問の再開も焦点となるであろう。密になる奉迎を避け、感染を防ぎながら、皇室と人びととのつながりをどう演出していくか。
田島同様、天皇・皇族と対話を続け、意見すべきことは意見する。一方で、天皇・皇族が持つ個性や資源を生かして、皇室を演出していく。そのために汗をかくことが西村長官に求められている。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、『近代皇室の社会史―側室・育児・恋愛』(吉川弘文館)など