軍部による政治支配の時代へ 書けなかった「2・26事件」 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/8〈サンデー毎日〉
1936(昭和11)年 戦前日本の転換点
現役将校らが犬養毅首相を暗殺した5・15事件は、結果的に「愛国」の名による暴力を許し、宣伝する効果を生んだ。流れにさおさしたメディアは巨大な惰力を持つ時代の渦に巻き込まれ、やがて戦前日本の転換点となる空前の軍事クーデターを目撃することになる。
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連載第6回で「阿部定事件」を取り上げた際、紹介しきれなかった挿話がある。作家の丸谷才一氏がジャーナリストの半藤一利氏との対談で、こう披露している。
〈お定が捕まった時、ちょうど国会では予算総会やってたんです。その時に三人の代議士が「しばらく議事を停止して号外を読みたい」という緊急提案をして、全員が事件の号外を読みふけった。僕はね、この三人は戦前の日本の国会において珍しく真実の声を上げた代議士だと感心しているんです〉(半藤一利『昭和史をどう生きたか』東京書籍)
阿部定事件が耳目を集めた1936(昭和11)年5月、東京は戒厳令下にあった。3カ月前、陸軍青年将校が下士官、兵を率いた約1500人の部隊が首相官邸、警視庁などを占拠、斎藤実元首相、高橋是清蔵相らを殺害した「2・26事件」が起きた。非常時に召集された議会にまつわる話だけに、丸谷氏の言う「真実の声」は皮肉交じりだが、少し大げさかもしれない。
というのも同議会では後世に知られる「粛軍演説」が行われた。本誌こと『サンデー毎日』5月17日号は、軍部当局が「5・15事件」を含む一連のテロ、クーデター事件を闇から闇に葬り、徹底した処置を取ってこなかったと糾弾する斎藤隆夫代議士の質問戦を伝える。〈約一時間半にわたって二・二六事件の心臓を衝いて熱火の大論陣をはる。閣僚席も議場も、傍聴席も(中略)舌鋒に胸をつかれてしわぶき一つ聞かれない〉
聴衆は「政党が斎藤の演説を数年前にやったらよかった」と称したというが、軍部は逆に事件を利用し、軍部大臣現役武官制の復活など政治支配、国民統制を進めていく。斎藤自身、40年に「反軍演説」を理由に議会から除名されている。
「書けることをやっておくさ」
ところで、事件経過について本誌が伝えるところは少ない。2月26日早朝の発生後、記事掲載禁止の通達が出され、翌日に戒厳令施行。記事の「一部解禁」がされたのは3月22日だ。戦後、創刊40年目となる61(昭和36)年4月2日号の特集「特ダネ40年史」で、青年将校らの動きに肉薄していた元『東京日日新聞』記者、石橋恒喜(つねよし)が、事件前夜の出来事を克明に記している。
〈私は歩兵一連隊前に住んでいた亀川哲也を訪問して、夕飯をごちそうになっていた。そこへ西田税(みつぎ)が、あわただしく和服姿であらわれた。「ワシがとめても、連中は聞きません。しかも山口(一太郎)さんが週番司令を引きうけてくれたというので、もう九分通り成功だとはりきっていますよ」
二人の話を聞いているうちに、ヒザ頭がガクガクしてきた。やがて村中(孝次)が軍装に身を固めてあらわれた。明払暁を期して行動を起こす。運は天にまかせる。みなさんごきげんよう……というのだった〉(一部中略、改変)
いずれも事件で罪に問われ死刑ないし無期判決を受けた面々だ。石橋は帰社し、異状を報告したが誰も本気にしなかった、とつづる。
一方、当時の編集部の雰囲気が、辻平一・元編集長の『文芸記者三十年』からうかがえる。事件当日の夜、阿部真之助(後に『毎日』主筆、NHK会長)を司会に浅草の料亭で「忍術を語る座談会」を行う予定になっていた。そんなのんきなことをしている場合か――困惑する辻に、反骨のジャーナリストとして知られる阿部はこう言った。〈やろうよ。(中略)この大事件も発表以外は書けないよ。ガアガアさわいでいるが、何も書けないよ。書けないことを騒いでいるより、書けることをやっておくさ〉
動き出した歴史を止める力はペンにはない。かっと開いた目を誰もがただ凝らしていた。
※本誌記事の引用は現代仮名遣い・新字体で表記