事件後に1年間「報道規制」 「5・15事件」消された真実 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/7〈サンデー毎日〉
1932(昭和7)年 おもねった「言論」
現役の軍人が徒党を組み、時の首相を暗殺する――むろん、「言語道断」の仕業だろう。だが、そう叫んだはずのメディアはじきに語尾を濁し、振り上げた拳を解いて追従のペンを執った。「言論」が暴力の影におびえ、自らその形を変えていった時代の始まりである。
「チャプリン帰る」
小さな見出しが本誌こと『サンデー毎日』1932(昭和7)年6月12日号の片隅に載る。直近1週間の出来事を拾った短信欄「週間時事」中の一記事だ。日付は6月2日、本文にこうある。〈斎藤首相を官邸に訪い犬養首相最期の部屋を見て後自動車で横浜に向い氷川丸で故国へ旅立った〉
喜劇王チャーリー・チャプリンが世界周遊の道中、初来日したのは、同年5月14日。海軍青年将校、陸軍士官候補生らがクーデターを企て、首相官邸、警視庁、政友会本部などを襲撃し、犬養毅首相を殺害した「5・15事件」の前日だ。事件当日、犬養首相と面会予定があったチャプリン自身も標的だったとされる。本誌同号に現場の官邸日本間を訪れたチャプリンの写真が載っている。細かい表情はうかがえないが、〈血に染(そま)ったところだけくり抜いた畳を見つめて涙ぐむ喜劇王〉と写真説明は記す。
事件を速報した5月22日号は〈翁の死を永く惜しんではいられないほど、昨今の世相は険悪だ。陰惨だ、もっと大きな暴風来がありはせぬかという不安をさえ感じさせる〉と、ファシズムの足音を警戒している。ただ、記事の主眼は後継首相選びに置かれ、テロを糾弾する筆致ではない。
同号の「週間時事」欄は〈十五日(日) 未曽有の帝都大不穏事件突発 ?町区永田町の首相官邸に〇〇〇制服を着たもの数名侵入、折柄居間にいた犬養首相に向って発射し逃走〉などとし、将校らの関与に触れていない。政府が厳しい報道規制を敷いたからで、規制が解除されるのは丸1年後の33年5月17日だ。同年の本誌5月28日号で『東京日日新聞』(東日、『毎日新聞』の前身)の社会部記者が「五・一五の思い出」を語っている。東日は事件当夜、5回にわたり号外を発行。第3号外では襲撃者を「現役予備陸海軍軍人」と報じた。
〈まごまごしていると差止命令が出る、差止めの出ないうちに一刻も早く――このことが、その場に臨んだわれわれのヂャーナリスト意識の全部であった〉
本社で指揮を執っていたデスク(副部長)はそうつづる。じきに真相が書けなくなる。当時の〝ジャーナリスト〟独特の嗅覚だろう。
「テロにつぐテロ」被告たちを英雄化
報道規制解除と同時に事件の概要が当局から発表されると、新聞は暴力を否定し、「言論の自由」を主張した。だが、大声にはならなかった。戦後の61年、本誌創刊40年目の記念号に、事件の軍法会議を取材した元記者の回顧録が載る。
〈テロにつぐテロ、不穏事件につぐ不穏事件は、われわれ報道陣の上に重々しくのしかかっていた。被告たちは、これを〝英雄化〟して紙面に登場させなければならなかった。「愛国の熱情ほとばしる陳述……」といった見出しが、デンとトップにすえられているかと思うと、被告の氏名にも(中略)敬称をつけなければならなかった〉(4月2日号)
事実、本誌33年8月6日号に載った「五・一五事件公判印象記」は被告の陸軍士官候補生の陳述をこう描く。〈国家革新運動から、皇道日本の精神本義を述べ(中略)文官の堕落に一矢を酬(むく)ゆるなど、二十五歳の青年とは見えぬ雄弁で、満場を酔わせたのです〉
おもねった筆は世論の同情心と相乗し、減刑嘆願運動を後押しする。「2・26」へつながる底流でもある。
事件渦中の日本を含む1年半の旅を経て、チャプリンはファシズムの世界的台頭を感じたという。後に映画「独裁者」で彼が痛烈に批判したヒトラーを、報道規制下の本誌同年2月12日号は「遂にドイツの天下をとった 風雲児・ヒトラ」と派手な見出しで持ち上げている。
※本誌記事の引用は現代仮名遣い・新字体で表記。句読点など区切り符号を一部改変