呼び出され「檄」全文掲載 〝士道〟ゆえの狂気か絶望か 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/20〈サンデー毎日〉
1970(昭和45)年 三島由紀夫割腹自殺
「気がふれたとしか思えない」と当時の佐藤栄作首相は言ったという。ノーベル文学賞候補と目された人気作家が自衛隊員に決起を呼びかけた後、割腹した。確かに〝狂気〟と見える。だが、その一言で片付かない何かが半世紀後もなお「三島由紀夫」を生かしている。
今年2月に死去した石原慎太郎元東京都知事は、1970(昭和45)年6月、『毎日新聞』紙上で三島と論争をした。発端は、自民党参院議員だった石原が月刊誌の対談で党をこきおろしたのを、三島が「士道にもとる」ととがめたことだ。いわく〈内部批判ということをあたかも手柄のようにのびやかにやる風潮に怒っているのです。(中略)昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙って耐えました。何ものかに属する、とはそういうことです〉。
一方、石原の反論は明確だった。〈政党に籍を置くということは、武士が藩を選ぶのとは顕らかに、全く、違います。(中略)正直いって、あなたの美意識が政治に向かって説く武士道に私は当惑します〉
石原の「当惑」はもっともに思えるが、三島はさらに本誌こと『サンデー毎日』誌上で〝再反論〟を試みている。抵抗を否定するのかと問う記者に三島はこう答えた。〈抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、ということだ。(中略)抵抗はナマやさしいもんじゃない。血みどろで、死に身にならなきゃできないのが本当である〉(7月12日号)
この「死に身」を実践した、という文脈は成り立つだろうか。同年11月25日、三島は民兵組織「楯(たて)の会」の4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、東部方面総監を人質に取るとバルコニーから約1000人の隊員に向かって「自衛隊が立ち上がらなければ憲法改正はない」と演説をぶった。
「一点のアナクロがダンディー」
しかし、三島を迎えたのは満場のやじだった。〈三島は「静聴せい」とやりかえした。「われわれは、心から自衛隊を愛してきたんだ!」それもヤジり倒される。(中略)「オレについてくるヤツは一人もいないのか!」と三島が問うたときに、ヤジは最高潮に達した〉と本誌12月13日号が伝える。演説を終えた三島は総監室で割腹自殺を遂げた。
本誌同号は陸上幕僚監部の三佐らによる「座談会」を載せている。彼らは口々にこう話した。〈いざというときのために死をかけるからこそ、平時は家庭を愛する人間でなくちゃならない〉〈いったん緩急あれば、ぼくらだってハラキリぐらいやりますよ。でも、年がら年じゅうハラを切れ、ではついていけない〉
口調には石原の筆致に似た「当惑」がにじんでいる。
本誌の編集次長だったジャーナリストの徳岡孝夫氏が当日朝、三島から現場に呼び出され、決意を記した手紙や自衛隊員に〈武士の魂はどこへ行ったのだ〉と訴える「檄(げき)」を託された話は有名だ。創刊100周年を記念する今年4月10日号でも思い出を語っている。
三島の行動は「狂気」とは違うというのが徳岡氏の持論だ。事件から10年後の本誌特集では、三島は本気で自衛隊をクーデターに決起させようと思っていなかった、と書いた。〈彼は(少なくとも当時の)自衛隊には、完全に絶望していた。死の二カ月ほど前に会ったとき、彼はその絶望を私に語った〉(80年11月2日号)
三島は何度か自衛隊に体験入隊し、同志と見定めた隊員がいた。だが共に決起しようと打ち明けると「でも憲法がありますから」と言って首を振られた、という。「ついてくるヤツは一人もいない」と知っていた。
事件の5カ月前、石原に再反論した先述の談話記事の中で、三島は「ダンディズム」を語っていた。〈最新流行の服を着て、口に何十年かの古いパイプをくわえているように、精神的にも一点、アナクロニズムが残っているってのがダンディーなんですよ〉 ハラキリと一直線で結べない言葉の残響が耳をくすぐる。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など