朝の海岸に響き渡った悲鳴 少年非行「第3波」のひずみ 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/17〈サンデー毎日〉
1983(昭和58)年 戸塚ヨットスクール事件
「暴力か、教育か」。その問いを一連の写真が木っ端みじんに打ち砕いた。悲鳴を上げる少年を角材で打ち据え、足蹴にする。死者まで出した海辺の訓練施設は、子育てに行き詰まる家庭の駆け込み寺でもあった。なぜ社会は「戸塚ヨットスクール」を必要としたのか。
〈コーチがつかつかと近づく。やにわに頬の肉をひっつかみ突きとばす。倒れると、首のあたりにコーチのヒザが襲ってくる。
角材が、むこうずねを打ちすえた時は「ギャーッ」という叫び声が聞こえた。間髪置かず二回、三回と同じ個所をうちすえる。「痛いッ、痛ァいッ!」それでも殴打をやめないコーチに、少年が顔をひきつらせて叫んだ。「どうしてッ!?」
コーチたちは罵声をあげる以外、ほとんど無表情だった。棒が折れると新しいのを拾い、抵抗できない少年たちを打った〉(一部略)
本誌『サンデー毎日』1983(昭和58)年5月22日号は早朝の海岸に悲鳴が響き渡る様子を生々しく伝える。愛知県美浜町の「戸塚ヨットスクール」で行われる日課の〝体操〟風景だ。
同スクールは76年開校。家庭内暴力や不登校など、「情緒障害」によるトラブルを抱える青少年をヨット訓練で〝治す〟とうたい、体罰によるスパルタ式訓練は過酷さで知られた。82年末までに死者3人、行方不明者2人が出ていたが、体罰が〝愛のムチ〟と呼ばれ、学校でも黙認されていた時代だ。スクールを卒業し、更生したという子どももいた。暴力か、教育か――世間は線引きをためらった。
本誌は83年4月下旬、海辺の旅館2階に陣取り、張り込み取材を始めた。3日目の朝、記者の目とカメラのレンズが捉えたのが冒頭の光景だ。写真の中の訓練生たちは、角材で殴られて泣き叫んでいるか、さもなければ足蹴(あしげ)にされる仲間の脇で、うつろな視線を地面にはわせている。〈この方法で「何百人もの情緒障害児を治した」と戸塚宏校長は言う。しかし、治ったか治らないか、などという論議以前の問題がここにはある。(中略)理不尽な暴力を連日のように受けた思春期の少年が、心にいかなる傷を負うか〉と記事は書く。
同号を含め、本誌は25週にわたるキャンペーンを張った。取材班の一人だった遠藤満雄氏(77)が振り返る。「亡くなった訓練生の親から、あんなところにわが子を入れて殺してしまったと嘆く声を聞き、こんなことがあっていいのかと思いました。とても教育と呼べるものではなかった」
逮捕後も続いた校長への〝擁護〟
一方、取材の中で「戸塚ヨット」にすがる親の姿も見えてきた。80年代、家庭内暴力が社会問題化。83年は戦後の少年非行「第3の波」と言われた。同年6月、戸塚宏校長(当時42歳)が訓練生の死亡事件で逮捕された後も、擁護する声が本誌に届いた。ある父親は匿名電話でこうまくし立てた。
〈戸塚に入るのはどうしようもない子供ばかりなんだ。子をどうにかしなければ(家庭内暴力で)親が殺される。こっちは何百万も払い込んでるんだ〉
父親は「親は戸塚に一筆入れてるんだよ」と息巻いた。体罰は民法が定める親権者の「懲戒権」を隠れみのにする。戸塚ヨットを駆け込み寺と頼む行為を、記者は〝子捨て〟と表現した。
あるシングルマザーは家に寄りつかない娘を入校させた。娘は〝卒業〟後、周囲に「あんなとこに入れられて親を恨んでいる」と話したという。この母親は本誌の取材に〈結局、うちの親子関係はうまくならなかった。あそこ以外に、どこか子供を治せる所はないのでしょうかね〉と言った。
子どもたちに表れる問題に対し、学校や家庭が特効薬を持たなかったのは事実だし、今もそれは同じだ。「自然の波や風が子どもを鍛える」と戸塚ヨットは親に説明したという。確かにそうだろう。母なる海は時に厳しい試練を人に課す。
だが、一つだけはっきりさせておきたい。暴力は少しも海と似ていない。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など