犠牲者の161家族を取材 本誌が始めた「全調査」 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/16〈サンデー毎日〉
1963(昭和38)年 国鉄鶴見事故の大惨事
大きな事故や災害の前で人は声を失い、立ちすくむ。それはメディアも同じだ。何をどう伝えるべきか、マニュアルはあっても正解はない。迷いとためらいの中で〝そこで起きたこと〟を手探りする。昭和史に爪痕を残す二つの悲劇を本誌は「全調査」で描き出した。
〈死者はあまりに私たちと似通っていた――。つつましいしあわせを願い、その日その日を懸命に生きていた人たちばかりだった〉
本誌こと『サンデー毎日』1963(昭和38)年12月1日号の記事は冒頭にそう記す。同年11月9日夜、横浜市鶴見区の国鉄(現JR)東海道線で貨物列車が脱線し、並走する横須賀線の上下列車と多重衝突。死者161人の大惨事となった。この「国鉄鶴見事故」を本誌は前週に速報。続く同号で身元不明1人を除くすべての犠牲者の遺族を訪ねる「全調査」取材を行った。
亡くなったのはどんな人だったのか、なぜその日、その電車に乗ったのか――。取材は一人一人の異なる人生がその一点において交差した〝不条理〟を浮き上がらせた。印刷工場勤務の19歳男性は東京都内の寮から実家のある鎌倉へ向かっていた。事故が起きた土曜日は毎週、家に帰るのが習わしだった。女手一つで育ててくれた母が「1週間に一度は顔を見せておくれ」と言っていたからだ。記者の取材に母親は「私が悪かった」と何度も繰り返した。
結婚を間近にした25歳女性は、都内の兄宅からの帰途、事故に遭った。泊まり込みで産後の兄嫁の手伝いをしていたが、翌日の結納のため鎌倉の自宅に戻る途中だった。焼香を済ませ、辞去する記者に母親が「せめてあの子の晴れ着を見てやってください」と言った。
本誌半世紀を記述した『週刊誌五十年』(野村尚吾)には当時の編集長、岡本博の回想がある。〈一六〇人の遺族を全部探訪して、誌面の大半をつぶした(中略)。記者のほかの編集、校閲陣もすべて取材に出た〉
日航機墜落事故でも「全調査」が起動
編集長自身が「べらぼうな方法」と言う取材により犠牲者の横顔が20ページを割いて掲載された。
すべて実名であり、遺族らの謝絶はほぼない。事件・事故や災害で「実名報道」の是非が議論される現在との比較はさておき、「161」というのっぺらぼうの数字に死者を置き換えないための、あがきに似た努力だろう。
鶴見事故で始めた「全調査」はその後、本誌の取材流儀の一つとなる。岡本はこう述べている。〈無名の人間の不条理な運命をできるだけこぼさない報道の方法として、戦後ジャーナリズム、とくに週刊誌の作法であったように思われる〉
85(昭和60)年、520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故でも「全調査」は起動した。8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便が群馬県上野村の山中に落ちた。本誌9月1日号は「524人(乗客509人、乗務員15人)全調査」を掲載。座席表を誌面上に再現して乗客全員の名前、年齢、所属を記し、手が及ぶ限り関係者に取材した。
午後6時発の123便は東西を結ぶ「ビジネスシャトル」として重宝されていた。歌手の坂本九さんやハウス食品の浦上郁夫社長、阪神の中埜肇(なかのはじむ)球団社長など多忙な著名人、企業人が犠牲になった。お盆時期だけに帰省、行楽客も多かった。都内に住む35歳の男性会社員は5月に生まれた娘を大阪の実父に見せるため、家族で帰省する途中だった。〈早く初孫を見たい、という父親の希望が逆に……〉と肉親は嘆いたという。
事故の悲惨さを伝えるとして、あえて血生臭い写真を扱う媒体もあった。険しい山の斜面をはいずった本誌記者の一人は9月8日号巻末の編集後記でこう書いている。〈現場を見た一人として、遺体の痛ましい写真を載せた一部の報道は、まがいものの事実だと思います。生を断たれた犠牲者の無念と、いとしい人を奪われた遺族の悲しみを、何一つ語らないのですから〉