高度成長時代の「狂騒史」大阪万博へ〝民族大移動〟! 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/14〈サンデー毎日〉
1970(昭和45)年 バッファロー・ダッシュ
国民全体を指して「一億」と呼ぶことがあるが、日本人口が実際に1億人を超していく中、1970(昭和45)年に開かれた日本万国博覧会(大阪万博)は延べ人数にしてその6割以上が繰り出した。高度成長万々歳の人間模様が渦巻くこの国の〝縮図〟でもあった。
「もうかったのはフトン屋」
本誌こと『サンデー毎日』1970(昭和45)年3月22日号の記事にある中見出しだ。同年3月、大阪府吹田市の千里丘陵を会場に大阪万博が始まった。同号は開幕特集として『毎日新聞』担当記者による「ウラ話」座談会を載せている。
「フトン屋」が繁盛したというのは、会場付近の住民宅へ泊まりに〈日ごろは時候のあいさつもない親類縁者が、どっとやって来る〉からだ。〈庭にプレハブの離れを建てたり、テントを張ったりした家もあるそうだ。(中略)千里ニュータウンのサラリーマンの奥さんが、会期中は〝万博特別家計〟を組めと亭主に要求し、モメとる話もおまっせ〉と、さしずめ民族大移動の観がある。実際、9月までの開会中、延べ入場者数は約6422万人に上った。同年の訪日外客数は約85万人だから、およそ日本人の3人に2人が訪れた計算だ。
続く3月29日号は開幕直後の様子をリポート。〈人気の筆頭は、アメリカ館に展示されている月の石。一目見ようと一時間以上も行列したあげく、人波ごしに数秒間のご対面〉とは万博詣での共通体験だろうが、1時間どころの行列ではなかったといぶかる人もいそうだ。実は開幕してすぐは千客万来とならなかった。
〈東京が中心のマスコミは、当初万国博を、「大阪という田舎」で開かれるイベントとしか扱わなかった。テレビや新聞の報道は決して大きくなかった〉と、通産省官僚として大阪万博を手がけた堺屋太一氏が回想している(『地上最大の行事 万国博覧会』光文社新書)。確かに前述の記者座談会も〈企業館は二十億、三十億円のカネをかけたなんていってるけど(中略)展示内容はあまりないみたいだ。ほんまは打合わせや接待にだいぶカネを使うてしもうたのとちがうか〉と冷やかし半分だ。ところが5月の連休を過ぎると入場者が急増。〈高を括っていた首都圏の人々も、「みんなが行く」ようになると気になり始め、「自分だけが行ってない」ことに焦りを感じ始め〉たのだ(同書)。
記事には「死亡者一覧表」を掲載
一方、万博の開催自体を危ぶむ声もあった。学生運動の流れに連なる「反博運動」が巻き起こっていた。しかし堺屋氏は、運動が下火になると予測していたという。〈学生たちは革マル派や中核派のヘルメットを脱ぎ、代わりに万国博覧会の建設工事現場で働き始めた。デモに参加していた女子学生が展示館のコンパニオンを目指すようになったからだ〉(同、一部略)
この見立てがどこまで的を射ているか知らないが、かくして万博は国民的イベントとして認知され、4~5時間の入館待ちが常態化した。誌面には「バッファロー・ダッシュ」という言葉が載る。朝の開場と同時に人気パビリオンを目がけて客が殺到するさまを指す。本誌9月13日号は「万国博狂騒史」を特集、この〝猛牛突進〟の末に富山県の65歳男性が死亡したと書いている。男性は猛暑の中、1時間以上並んで開場を待ち、門が開くや三菱未来館へまっしぐら。約100㍍に延びた行列の後尾についたが、間もなく倒れた。死因は「心臓マヒ」とされた。
記事は17人を数える会期中の「死亡者一覧表」と併せ、衛生担当者のコメントを載せている。いわく〈万国博の見物者は、みなさんせっかちなんですね。一睡もしないでそのまま会場にはいり、炎天下の立ちんぼでしょう。昔の軍隊の強行軍なみじゃないですか〉。
開幕前年のテレビCMをきっかけに「オー、モーレツ!」が当時の流行語となっていた。大阪万博は、高度成長時代に疾駆される日本社会の一大模型だった。